ニセ仙人山籠もり

自跋:『ニュートン主義の罠——バイオエピステモロジーⅡ』

2017年9月7日 | 機械論と生気論, 科学哲学, 自跋 | Download PDF

 とくに見通しがあって書き始めたわけではないのだが、今回(2017年8月)、『ニュートン主義の罠——バイオエピステモロジーⅡ』(書籍工房早山)を出したことで、『バイオエピステモロジー』(2015年8月、同)、『時間と生命』(2010年9月、同)の“バイオエピステモロジー三部作”をまとめることができた。 もう一冊、わかりやすい集成版を書いてみたいと思っている。

 出版がみな夏になっているのは、4月から「地球環境問題と国際政治」という授業が始まるので、3月末までに原稿をまとめるようにしているからである。本として仕上がるのはその3~4ヵ月後になってしまう。
 私がなぜこのような形で本を出すのか、その事情を記しておこうと思う。

死の恐怖にかられて
 直接のきっかけは、2006年に還暦を迎えたことにある。当時、私は「科学技術文明研究所」という、おもに生命倫理政策の研究を行う小さな組織の所長をしており、スタッフが、7月の私の誕生日に合わせて還暦祝いの集まりをもってくれた。
 その席で、若いメンバーから「所長おめでとうございます!」とお祝いの品を受け取った瞬間、私は強烈な死の恐怖に襲われた。このまま死ぬのは嫌だ、と激しく思った。狼狽しているのをとり繕ったから、誰にも気づかれなかったはずである。
 世俗的には私は、生命倫理や地球環境問題の研究でそれなりに成功を収めたことになるのかもしれない。だが還暦には、死を見据えて残る人生を再設計しろという意味合いがあるのだとしたら、自分が本当にやりたいことにまだ何も手をつけていないのに、突然、気がついたのである。死後、生命倫理や地球環境問題の専門家の欄に‘整理’されてしまうのは絶対に耐えられない、と痛感した。
 そこで、古い資料の山から35年前、学生時代に読んだH.ドリーシュの英訳本『生気論の歴史と理論 The History and Theory of Vitalism』(1914年)のコピーを捜し出して、全訳した。さらに、ドリーシュの新生気論に関する格好の捕捉説明である、ロンドン大学での講義録、『個体性の問題 Problem of Individuality』(1914年)も合わせて訳出し、私の長めの解説をつけて、翌2007年1月に、同名の『生気論の歴史と理論』(書籍工房早山)として出版した。
 本の翻訳だけは絶対にやるまいと思っていたから、学生のときの書き込みを手掛かりに、少しでも早く仕上げて、手放してしまいたかった。だが、この本はドイツ語からの英訳(英訳者は『意味の意味』を書いたC.K. オグデン:1889~1957)で、意味がとりにくい部分があった。ことに、カントの目的論を扱った章は異様に長く、そして難渋した。恐れていた通り、この箇所に誤訳があると、ある方から指摘をいただいた。
 ただ私の意図するところは、悪名ばかりが高い生気論の基本的著作を、日本人の視野の中に一冊入るようにしておくこと、この一点にあった。こうしておけば、生気論に関心をもった誰かがこの本を手にし、最後まで読んでくれれば、解説の中に仕組んである現代生物学の底に潜む重大な問題に誰かが気づき、取り組んでくれるはず・・・、私はこう信じた。
 だがそんなことは起こらなかった。考えてみれば当たり前で、個人が抱えている哲学的課題を他人がやってくれることなど、絶対にありえない。そこで、60歳台後半以降は、現在の生命科学の底に伏在する「分子生物学 vs 生気論」という哲学的課題を、21世紀人の視野の中にたち現れてくるような作業に充てることにした。その最初の試みが『時間と生命』(2010年)である。これが大部になってしまったのは、『種の起源』の出版以降、おおよそ150年の間に、生物学/生命科学が採用してきた、生命に対する‘見立て’をより正確に扱う方法を考えた末に、「方法論としての原典翻訳」という手法にたどりつき、これを採用したからである。
 なかでも頁を費やしたのは、19世紀ドイツ生物学の基本的衝動が広義の因果論化にあったことを示すために、ヘッケルの『一般形態学 Generelle Morphologie』(1866年)の中で該当すると思われる項を訳出したからである。それぞれの時代、生物学者/生命科学者が生命をどのようなものと考えていたかは、彼らがとった表現を、力づくでも21世紀人の目に入るようにしないと伝わらないからである。
 この機会に訂正をしておくと、『時間と生命』の中で、「マクスウエルの悪魔」とすべきところを、「ラプラスの悪魔」となっているのが4頁7箇所ある(p.7(目次)、p.418(4箇所)、p.420(小見出し)、p.422)。「マクスウエルの悪魔はどこに潜んでいるか」という大切な課題を扱っているところであり、とんでもない失敗を犯してしまった。

 二冊目のタイトルになった『バイオエピステモロジー』という概念は、『時間と生命』では「バイオ・エピステモロジー」(p.462~464)という形で頭出しをしておいたし、2010年7月号『科学』(岩波書店)が合成生物学で特集を組んだ際、その巻頭評論を依頼されたので、「合成生物学の生命観」という短文を書き、ここでバイオエピステモロジーにも言及しておいた。
 『バイオエピステモロジー』で私の考えは大方述べたつもりであるが、これまでの生命論とはまったく異質であることを考え、マンガの導入部をつけることを江良弘光氏にお願いした。氏は驚くほど質の高い作品に仕上げてくれた。あわせて冒頭に、重要な説明図をカラー化して載せたから、私の意図することころはより鮮明になったと思う。
 しかし、筆を置くと、書き残した部分がどんどん膨らんでくるものである。『バイオエピステモロジー』の後半部分をもう一歩前に進めて、論じ直したのが『ニュートン主義の罠——バイオエピステモロジーⅡ』である。結果的に多くの図を再使用することになったが、却って、図の必然性と意味ははっきりしたと思う。

熱運動嫌悪症(thermophobia)の診断;そして一点突破・全面展開へ
 「ニュートン主義の罠」というタイトルが示す通り、この本の主張の一つは、生命を物理・化学で説明しようとする19世紀以来の機械論の構想は、現行の物理・化学自体がはらんでいる本質的欠陥によって、実はもうかなり以前から、その説明能力は限界に達していることを指摘していることである。
 ここで言う現行の物理・化学が孕む本質的欠陥とは、恐ろしく単純なものである。それは、分子が分子として存在する以上必然であるはずの熱運動を、系統的に抹消してしまう操作を、現行の化学/生化学はその基本工程に織り込でいる、ということである。現行の自然科学が帯びるこの性癖を、この本では「熱運動嫌悪症 thermophobia」と診断し、同時にそれを、現行自然科学の「瑕疵問題」と呼ぶのである。
 こういう言語表現を本当に手にするためには、眼前に展開する自然科学の強制的・啓蒙的・教育的・布教的な影響圏から離脱し、これを真の意味で相対化をし、科学的な認識活動の急所を突くような評論ができるまでの、精神的な距離感を確保しなくてはならない。認識論史の側面において、非常に見通しの良い‘高み’に到達する必要があるのだ。そしてその手法として考え出したのが、19世紀末/20世紀初頭のドイツ生物学と眼前の生命科学とを直接対峙させる、「冥界対話」であった。
 こうして100年を隔てた二つの生物学/生命科学を並べてみると、両者が拠って立つ自然哲学、言い換えれば、生命をどのようなものと見立てているかが、あぶり出されてくるのだ。そのなかで特に印象的なものが、両者が拠って立つ分子像の違いである。
 19世紀末/20世紀初頭においては、分子は剛体の球形微粒子として扱われ、熱力学理論はそのような理想気体をモデルとして組み立てられた理論である。この点については本の中で、ボルツマンの『気体論講義 Vorlesunggen über Gastheorie』(1895年)の冒頭を訳出して、確かめてある。
 これに対して、21世紀のわれわれは、細胞内は複雑で多様な分子が濃密に溶けている水溶液であることを、よく知っている。このような細胞内部に向けて、19世紀末に完成した熱力学理論を当てはめてみても、当然、意味はない。にもかかわらず、これほど単純な対比が、なぜこれまでされてこなかったのか、という問題が立ち上がってくる。それは、現行の生命科学が、強制力をもった自然哲学の上にあるからで、それを私は「薄い機械論」と命名してきた。
 この「薄い機械論」は、19世紀後半/20世紀初頭のドイツ生物学の基盤をなした「機械論 Mechanismus」の直系にあり、一言で言えば、生命を物理・化学的に説明しようとする構想である。ただし、20世紀初頭で、「機械論 vs 生気論」論争が盛んになったのだが、それはこの時期に、H・ドリーシュが、最新の物理学の成果である熱力学の著作を精密に読み込み、その上で、機械論を否定して「新生気論 Neovitalismus」を唱えたことが、大きな要因である。
 ドリーシュは、自らの発生学実験の結果と、最新の熱力学の内容を対比してみた結果、熱力学第二法則はエントロピーの拡大という狭義の物理学法則と、これに重ねて、「万物は拡散する」という現象法則の二重性を帯びており、生命現象はこの後者と矛盾するという‘発見’に到達した。これが、彼が終生主張し続けた‘機械論’批判の根拠でもあった。
 その後、ドリーシュの新生気論は全面的な批判・否定の対象となるが、その基本的な理由が、熱力学が理想気体というモデルの上に組み立てられた理論であることが判明した以上、あとは「薄い機械論」を確かめながら、この自然哲学の上にある理解のし方を解体(本では脱構築と表現している)していくという長い長い作業が必要になる。
 大変だが、一点突破・全面展開という感触をもっている。(つづく)