ニセ仙人山籠もり

今はいない、無二の友

2017年11月6日 | 雑記 | Download PDF

 思いたって、今日(2017年11月5日)、今は無き、無二の友のお墓参りをしてきた。11月6日は彼の七回忌である。

 私は、人見知りが異様にきつく、運動神経がまるでなかったから、友達づきあいが苦手だった。そうなると、若いエネルギーをぶつける先は、消去法で山登り以外の選択肢はなくなってしまう。1962年に、愛知県立旭丘高等学校に入ると、すぐ山岳部に入った。同期の一人が、杉山文蔵であった。
 高校としては本格的な活動をする山岳部で、その年の7月には白馬岳(2932m)から槍ヶ岳(3180m)まで、後立山を縦走した。この1週間の縦走で、同期全員が自信をもつようになり、山登りが楽しくてしょうがなくなった。同じ年の10月に積雪期登山の偵察と称して、上級生3人と文蔵(ずっとこう呼んできた)と私の5人で、仙丈岳(3033m)、甲斐駒ヶ岳(2967m)、鋸岳(2685m)を縦走した。残っているアルバムによると、日程は10月6~9日になっており、たぶん文化祭をさぼっての、学校には内緒の山行だったと思う。
 その時、秋晴れの甲斐駒ヶ岳山頂で、八ヶ岳を背景に文蔵と撮った写真がこれである。

1962年10月、杉山文蔵(左)と
甲斐駒ヶ岳(2967m)山頂にて

 少年時代に、無条件に波長が合い、いつもいつもどうしても一緒にいたい友ができるものだが、私と文蔵との関係は、それが極端だった。ちょうど、霊長類の子供たちがじゃれ合うようなものである。とくに、いちばん心も体も自由な2年生で同じクラス(206組)になったから、もう高校には、文蔵とべたべた無駄話をするためだけに行くようなものになった。自宅が少し遠かったから、文蔵と離れるのが嫌でそのまま文蔵の家に行ってしまい、夕飯を食べさせてもらって、朝まで無駄話をして、また学校に行ったことも幾度かあった。
 数週間ごとに、鈴鹿山脈に行った。1000m前後の、高校生の身の丈にぴったりとあった山々だった。今でも新幹線で滋賀県を通過するときは必ず、鈴鹿の最高峰の御池岳(1247m)を確認する。卒業までには、鈴鹿のめぼしい尾根と沢は、登ったことを示す赤線で、五万図は真っ赤になった。
 ある時、文蔵と二人で、まだ未知の要素があった谷尻谷を遡行し、クラシ・イブネ(1167m)に上がったのだが、広い頂上台地は当時、背丈のある強靭な笹で覆われており(その後、笹は開花の後、枯死し、今は歩きやすい草原になっている)、霧の中でルートを誤って佐目ゴ谷を下ってしまったことがあった。初めて滋賀県側に下山のだが、話をした人が、愛知県のことを‛えちけん’と言ったのを、二人で面白がった。愛知川(えちがわ)と同じ読みだと思ったらしい。

 ずっと無二の友だったが、晩年、体調が少し悪くなるにつれて、あまり会いたがらなくなった。だいぶ経ってから、どうしているか、と葉書を出したところ、親戚の方から、稀な病気を患い2011年11月に死去したとの、お手紙をいただいた。
 衝撃だった。私の生きる世界が変わってしまった。いつぞや、電話のついでに体の悩みを告げたのだが、そんなに難しい病気で苦しんでいるとは知らず、いつかは会えるものと思い込んだまま、冷たい対応をしてしまった。悔やんでも悔やんでも、取り返しがつかないことをしてしまった。
 あのときは本当に済まなかった、と謝りながらお墓に手を合わせた。
 久しぶりの秋晴れで、茅野の福寿院霊園の木の間からは、甲斐駒ヶ岳や八ヶ岳が、きれいに望めた。
 私は、55年前の、甲斐駒ヶ岳山頂の二人の写真の写しを、お墓の陰に埋めた。
 文蔵は206組の同級の女性と結ばれ、仲睦まじくこのお墓に眠っている。私にとっても同級生であるK女史も、これは許してくれるだろう、と思っている。


2017年11月5日 茅野市福寿院霊園にて