ニセ仙人山籠もり

吉岡斉——若き日の志

2021年9月18日 | 科学評論, 雑記 | Download PDF

再録:故・吉岡斉氏の追悼集が出版されるはずであったが、連絡がないので、ここにアップすることにした。

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 在野の生物学史の研究者であった私は、1976年4月から、三菱化成生命科学研究所に採用され、村上陽一郎・助教授(当時)の特別の計らいで、その夏から、東大教養学部の科学史・科学哲学(科哲)研究室に、出入り自由の扱いにしていただいた。この時代、東大駒場は、紛れもない日本の知の中心地のひとつであり、科哲(かてつ)はその一角を成す、光り輝く研究室であった。

 なんとかその一員として認められ、まわりを見渡すだけの余裕ができると、私のすぐ前を、恐ろしく切れる大学院生が独走しているのがわかった。本郷の理学部物理学科から転進してきた吉岡斉(1953~2018)という修士一年の院生である。彼が転進してきた1976年には、「東大科学史・科学哲学研究室ドクサ研究会」が発足し、手作り感のある、手書き原稿を製本した『ΔΟΞA(ドクサ)』の刊行が始まったところであった。その第2~3号に掲載された「科学者共同体とは何か——科学社会学の共通認識をもとめて(上、下)——」(Vol.1 No.2 & Vol.2 No.1, 1976~77)は、英米で展開されている新興の科学社会学についての、堂々たる総説であった。科哲の院生なら、この程度のものは軽々と書きあげて当然という気迫の、圧倒的な存在感のある作品であった。

 そうこうするうちに、中山茂氏(1928~2014)が若手の科学史研究者を集めて、日本独自の学問の成立や、戦後日本の自然科学の発展過程を研究するチームを組まれ、私にも声がかかった。こうして、物理学の吉岡氏と生物学の私は、自然とペアを組むようなかたちになった。

 いま振り返ると、二人の科学評論の力が鍛えられたのは、中山氏が、1981年1月~1984年3月の3年間、『朝日ジャーナル』の「文化ジャーナル」欄のなかに「サイエンス」を設けるよう依頼され、中山、藤原英司(自然保護)、高木仁三郎(原発問題)、吉岡斉、米本の5人で、これを担当したことではなかったかと思う。中山氏は、「こんど『朝日ジャーナル』の編集長になった筑紫哲也(1935~2008)がぼくの友人でねぇ・・・」と事情をもらした。

 毎月一回、築地の朝日新聞に集まって、科学部がとっている英文の科学雑誌、たとえば、Nature、Science、New Scientist、Bulletin of the Atomic Scientist、などを回し読みし、あれこれ議論をして執筆の順番を決めるのである。ただしほとんどの場合、早めに切り上げて、中山、吉岡、米本は、担当編集者と飲みに出ることになる。この時代、朝日新聞は本当に金があった。

 当初は匿名で、ペンネームは、中山→「龍眼」、高木→「かま猫」、吉岡→「聖」、米本→「天鼠」(コウモリの漢語)、であった。「聖」は「斉」の音をもじったものと思っていたが、いま考えると、ファンであった松田聖子からとったのかもしれない。調査旅行でツインの部屋で同宿したとき、彼は朝、歯を磨きながら「青い珊瑚礁」を口ずさんでいた。

 吉岡氏は、84年3月のこの「サイエンス」欄で、自らを「科学社会学の研究者」と規定している。ここからは、まったく私の推測になるのだが、この科学評論で高木氏と組んだことが、その後の彼に影響を与えたのだと思う。この場では当然、高木氏が原発問題を一手に引き受け、吉岡氏はそれ以外の巨大科学、具体的には、スーパーコンピュータ、宇宙開発、核融合などをとりあげたが、このときの体験から彼は、自分の研究対象から原発問題をはずすまい、と決心したのではないかと思う。

 そのことはまた、都立大学理学部助教授の職を辞して野に下り、原子力資料情報室を立ち上げた高木氏とは別の道を見出すことを強いられることでもあった。そして彼の結論は、あえてアカデミズム内部に踏みとどまり、原発という最重要の課題を素手でつかんで、科学社会学という学問的中立性と客観性を武器に、この課題について、政府・産業界が描くのとは別の像を、社会に向かって提供し続ける役割を、引き受けることであったのだと思う。

 吉岡氏は、原発は単純に商業ベースに委ねれば、その経済的不合理性から企業は自ずと撤退していくのであり、国策による介入はこれを歪めるだけ、という明確な認識にあった。そしてこのことを、「役人は必ず間違いをするものだから」と、ひねった形で表現していた。彼のバランスのとれた原発政策史の研究(とくに『原子力の社会史——その日本的展開』朝日選書、1999)は、政府側も無視できず、政府審議会の委員となった。これは、政府審議会を真の討議の場にするための、彼の戦略の勝利なのだが、彼はそれを「御用学者となりまして・・・」と自虐的に笑って言ってみせた。それはまた一面で、政治的課題から遁走するばかりの日本のアカデミズム研究者に対する、ウイットの効いた批判でもあった。

 先に触れた、24歳で書いた総説「科学者共同体とは何か」のなかに、すでに次のような一文が織り込まれている。

 「・・・今日においては、原発問題をはじめ、微妙な科学技術上のことがらと深く関係した社会問題は少なくない。そうした問題をめぐる論争で持ち出される「科学知識」は、限定なしの客観的事実ではあり得ないし、科学者・技術者もあらゆる先入見を免れた公正な審判ではない。それゆえ「科学知識」の性格と役割について、また科学者・技術者の置かれる状況について、周到な分析が欠かせないのである」(Vol.2 No.1, p.47 1977)。

 つまり吉岡氏は、若い時の志を生涯、爽やかに貫徹させた、本物の知識人であった。晩年の彼は、恐ろしく複雑な問題の渦中にあり、すこし孤独感を漂わせていたが、久しぶりに二人が会うと、専門分野が異なる気安さから、瞬時に、科哲時代の愉快な飲み仲間に戻ることができた。私にとって、大切な大切な思い出である。

写真は、1983年4月6日、中山研究会の合宿にて。左から、吉岡斉、米本、高田、河本英夫、中山茂の各氏。