ニセ仙人山籠もり

黙殺され続けた「フッサール=ドリーシュ問題」と、『バイオエピステモロジー序説』「あとがきに代えて」の再録

2021年6月13日 | バイオエピステモロジー, 科学哲学, 自跋, 雑記 | Download PDF

 

「フッサール=ドリーシュ問題」の発見
 昨年(2020年)12月、私は、これで最後にするつもりで『バイオエピステモロジー序説』を書いたのだが、実際に本にしてみると、どうも納得がいかない。登ろうと思っていた山の頂に、いざ立ってみるとさらにその奥に、本当に登りたかったのはあの高まりなのだ、と確信させる峰が、つぎつぎ現れるのだ。いまは、20世紀精神史を総括する視点から、もう一冊、『生命科学の危機と21世紀の自然哲学』という本を書こうと思っている。
 言うまでもなく、このタイトルは、E・フッサール(1859~1938)の晩年の名著、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を踏まえたものである。20世紀の哲学に決定的な影響を与えたフッサールのこの代表作のなかには、エンテレヒー(Entelechie)という言葉が3回登場する。これらすべては、人類の内発的な秩序創造という意味で用いられている。いまのフッサール研究では、この言葉は、アリストテレスの文脈で解釈するのを、定番としている。むしろ、フッサールほど大学者が、たいへんまずい概念を不用意に用いた例外と見なし、見なかったこととして、通り過ぎるのが普通である。

 だが当時、この言葉は、H・ドリーシュが提案したものであるのはまったくの常識であった。加えてこの時代、「科学の危機」と言えば、その一端は、H・ドリーシュ(1867~1941)によってもたらされたことも自明であった。実際、ドリーシュの自伝には、1912年(ベルリン)と1914年(ゲッチンゲン)のドイツ心理学会で、フッサールとドリーシュは幾度か討議をし、その後、非常に親しくなった、とある。だから次の本では、同時代人である「フッサール=ドリーシュ」問題を明らかにしたうえで、現象学的方法論を現在の生命科学に適用することで、「薄い機械論」の脱構築に向かいたい。

 いまの私に課せられているのは、20世紀前半にフッサールが構築した超越論的現象学の枠組みを、現在の生命科学に適用し、われわれの自然哲学的地平を一新させることだと思う。それを、バイオエピステモロジーの言葉で表現すればこうなる。フッサールは、われわれが「人間的近傍」に住まうことを運命づけられている事態を踏まえ、その上で、われわれの世界把握のあり方について研究しようとした。そのためには、人間の世界把握についてメタ的視点に抜け出るのが良いのだが、これは原理的にできないため、メタ的視点にぬけ出る直前の斜面に、これを語るための哲学的な枠組みを構築し、その上にいっさいの自然科学を基礎づけようとした。それが、「超越論的現象学 die transzendentale Phänomenologie」であり、この視点を明確にあらわすために、たくさんの言葉を重ねた。人間中心主義的な世界観のなかで、われわれの認識のあり方の解明を目指したのである。

 

 この次作へのつなぎとして、『バイオエピステモロジー序説』の「あとがきに代えて」の項を再録しておく。なお、この文章は、本ブログの「バイオエピステモロジー入門 その1」を全面的に組み込んだものであることをお断りしておく。

[終章の最終部分から]
 若かった遠い昔、いつか登りたいと心に決めた山の頂きが、かすかに望める地点にたどり着いたようである。それは、まだ誰の視界にも入っていない未踏峰で、標高すら定かでない。嶮しい尾根の肩や、遠い峠にも這い上がり、その頂きの位置と登坂ルートを確かめながら、少しづつ距離を詰めてきた。いま、取りつき点と思える長大な尾根の末端にたどり着いた。モレーンのかげに平らな場所を見つけて、ささやかなベースキャンプを設けようと思う。

あとがきに代えて
 信じてもらえないかもしれないが、いま振り返ると、一九七一年の秋の時点で、私は、J・ワトソンの『遺伝子の分子生物学』(1965)と、H・ドリーシュの『有機体の哲学』(1909)の二冊を、同時に同じ目の高さから読み込んで、一書にまとめることが、真の科学的生命論であろうと、漠然とだが感じていた。この時、京大理学部生物科学系の学生であった私は、どう取り組んでいったらよいのか皆目見当もつかないまま、この巨大なテーマを大学批判に重ね、一生涯、在野で考え抜こうと決心した。こうして郷里に帰って、証券会社で働き出した。この間の事情は、拙書『独学の時代』(NTT出版、2002)に書いておいた。
 いまとなっては、もう説明不可能なのだが、一九六〇年代の末、私も含め、学生たちはみな、ものすごく怒っていた。大学は解体されるべきであり、いまある学問すべては根底から見直されるべきだ、と信じた。
 このとき、京大教養部の生物学教授であった吉井良三(1914~1999)は、『洞穴学ことはじめ』(NHKブックス、1970)で、おおむね次のようなことを記している。京大教養部のバリケードの中では、反科学という名の下に自主講座が開かれたが、その中に「反分子生物学」というのがあった。これは聞きたかったが、教官であるため、バリケードの中に入れてくれなかった(同書、p.169)。
 あれだけの犠牲を払い、真摯な議論をしたのだから、分子生物学批判を前提とした研究は、当然、認められるものと信じて、生物学系のコースに進んだのだが、大学紛争直前の一九六六年に新設された京大理学部生物物理学科は、どうも、アメリカで爆発的に研究が進んだ分子生物学を、日本に導入するための一つの拠点として置かれたものらしかった。だが私としては、客観的に見れば「目的論的」と形容するしかない生物の発生過程と、目的論の概念との関係に決着をつけなければ、前に進めないような気がした。
 しかし、そのようなことを口走れば、「その議論、危ないなぁ」という声にたちまち囲まれ、生気論の入り口にいるこの若造を正道に戻してやろうとする、集中攻撃の的になってしまうことがはっきりした。京大理学部という空間は、反生気論の牙城であったのである。このとき、たった一人、私の疑問を正面から受け止めてくれたのは、山梨大学から転任されてきたばかりの、白上謙一(1913~1974)教授であった。
 白上氏は、亡くなる直前の論考でこう述べている。
 「ドリーシュは言う。調節胚の各細胞の運命は、全体におけるそれらの位置の函数である(Philosophie der Organischen, Vol.1, p.80)。このことの意味を考えつづけて来た筆者に、今年、京大を卒業していまは株屋さんに勤めている米本昌平君が、たいへん、示唆に富む意見をきかせてくれた。
 ドリーシュのエンテレヒーとは、いまのことばでいえば、情報性ということではなかろうか、と。
 情報は、そのキャリアーとして物質を必要とするであろうが、それ自身は物質でも、力でも、エネルギーでもない。空間の内にあらずして空間に働きかけるなどという、禅の公案のような表現さえも、物質の世界には何ら有限なものを投影しないところの、筆者のいい方によれば、それと一点において直交(強調は米本)する世界に属するものだとすれば、きわめて妥当な表現であろう」。
 「本当の生気論というものは、それぞれの時代における脳漿(のうしょう)の澗(か)れるほどの機械論的考察のあげくにおいて生れるものである。だからそれは、もはや、いかなる現実的な研究のプログラムをも約束し、組んで見せることができないのは当然である。それは文章のおわりのペリオッドのようなものである。たえずそれは取り除かれ、新しい文章が書き加えられていく」(白上謙一:WolpertのPositional Informationの周辺、『科学基礎論研究』、Vol.11, p.89~90, 1973)。
 これも『独学の時代』に書いたことだが、私の郷里でも会社員生活は四年で終わり、三菱化成生命科学研究所の中村桂子室長が主宰する社会生命科学研究室に、科学史担当の研究員として採用されることになった。これを機に、このときまでに目的論について考えたことをまとめたのが、「生而上学小論——もしくは応用進化抽象生物学をもとめて」(『知の考古学』No.10, p.52~55, 1976)である。
 私は、採用されたポストに期待されているであろう課題を手探りで探し求め、研究した。その結果が、優生学史と生命倫理の比較政策研究と、環境外交の研究である。ところが還暦になった瞬間、ほんとうにやりたかったことに、まったく手をつけていなかったことに気がつき、愕然とした。いま死ぬのは嫌だ、と切実に思った。そこで、ドリーシュの『The History and Theory of Vitalism』(1914)と、『The Problem of Individuality』(1914)の二冊を翻訳(『生気論の歴史と理論』、書籍工房早山、2007)し、それについて解説論文をつけ、ドリーシュ問題の重要性を指摘しておいた。これだけ明確に指摘したのだから、あとは誰かが取り組んでくれるであろう、との考えからである。
 だが間もなく、私が重要だと信じたことは私がやるよりない、という当たり前のことに気がついた。そこでまず、十九世紀ドイツの生物学の特徴から説き起こした『時間と生命』(2010)から始め、以降、十年をかけて三冊めの今回の本『バイオエピステモロジー序説』(2020)にたどり着いた。学生時代に夢みた本が、半世紀後に実現するというのは、なんとも不思議な感じである。
 ところが、結論をまとめていて、とんでもないことに気がついた。私のこれまでの思索の旅は、三菱化成生命科学研究所を作った、江上不二夫(1910~1982)博士の研究構想の一つであり、江上所長が組み立てた仕掛けに、私はみごとにはまったのではないか、という見立てである。

 私の記憶では七〇年代末までは、研究所の隅々にまで江上不二夫所長の精神がゆきわたっていた。たとえば、生命とは何か、という恐ろしく基本的な問いを真摯に問う姿勢が共有されており、研究者間で、ラジカルな質問を投げかけあうことは、たいへん好ましいこと、と思われていた。実際、科学史担当の私がふらりとある研究室を覗いて、ひどく素人っぽい疑問を口にすると、恐ろしく優秀な先輩や同僚たちは、みな待ってましたとばかり、最先端の研究状況を簡潔にまとめた上で、その問いに丁寧に丁寧に答えてくれたのである。
 こんなに贅沢な時間を、私は好きな時に好きなだけ持つことができた。なぜ、こんな特権が私に与えられたのだろ? いまとなってみると、どうも、このポストは、この稀有な民間研究所の中で、自ずと生命科学の認識論的課題に関心が向かうよう、仕組まれたものであり、それは江上不二夫所長の構想の中にあった、たくさんの仕掛けの一つだったと思うよりない。
 とは言え、眼前で日夜、精力的に展開される生命科学研究を、系統的懐疑の煉獄に投げ込むだけのエネルギーを、さすがに私個人はもてなかった。やはり、私が還暦を迎え、残る時間を逆算する立場になったことが決定的である。

 思い通りに書いた原稿を、自分の金で思い通りの本にする……。こんな禁断の悦楽を覚えてしまった。もう、中毒の域である。これまでの自費出版の業務を快く引き受けて下さった、(有)書籍工房早山の早山隆邦氏に心から感謝する。受けとった原稿にはいっさい感想をはさまないという、有能この上ない編集者にとっては、まことに酷な当方のお願いを最後まで守っていただいた。
 私にとっては、思索をめぐらすことこそが大切である。思索の内容を、いつか誰かに伝えたいとは思うが、それはいま生きている人たちでなくてもよい。ひどい対人恐怖症であり、周囲を説得しよう、説明しよう、とすることは、はるか以前に断念してしまった。それは若いとき、自分の考えたことが全く周りに伝わらない、巨大な壁ばかりであるのが分かったとき、そういう現実の中で生きていくために、私が獲得した知恵であった。人に説明しようとして挫折するが分かっているのなら、そんなことに充てる時間もエネルギーも無駄である。それは苦痛でしかない。
 しかし、「それから眼をそらし、背理であるからというので、現代の科学では説明できないから、というので、強引に否定し、無視し去るのが、知性的なのか?」(小松左京『果てしなき流れのはてに』ハルキ文庫版、1956、p.29)。ただ私は、「怠惰な真理より、勇気ある誤謬の方を好む人間」(梅原猛『地獄の思想』1967、p.ⅲ)でもある。そして、『論語』にこんな言葉あることを思い出した。「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」。
 今回は、次の句で終わろうと思う。

 俗論は潮騒のごと雲の峰            『中曽根康弘句集』(1985、p.102)

    二〇二〇年     盛夏

                         町田にて   米本昌平