ニセ仙人山籠もり

再録:中村禎里の開いた世界・生物学と社会

2021年4月30日 | アカデミズム批判, 科学哲学, 科学評論, 雑記 | Download PDF

『生物学史研究』(No.92 2015年9月、p.64~70)「シンポジウム・中村禎里と冷戦期日本の生物学史研究」を、再録する。

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中村禎里が開いた世界・生物学と社会
米本昌平

1.中村禎里氏との出会い
 ここに1枚の写真がある。1975年6月、同志社大学で開かれた第22回日本科学史学会の2日目(6月8日)、大会の看板を前に、生物学史の関係者10名が集まった記念写真である。最後列の左から、里深文彦(1942~2010)、中村禎里(1932~2014)、筑波常治(1930~2012)の3氏と、右端に28歳当時の私が写っている。私の右腕が筑波氏の前にあるのは、生物学史の関係者で写真と撮ろうということになり、私は加わってよいものか迷って、離れた位置にいたのを、「君、そんなところにいないでもっと寄れよ!」と、筑波氏がぐいと私を引き寄せたからである。私は、左手に持っていた荷物を置く暇もなく、それを背中に隠して、皆と一緒に写真におさまった。満面の笑みをうかべる筑波氏の反対側には、中村禎里氏がいた。

 当時、私は郷里の証券会社で働きながら、通勤電車の中とわずかな休日の時間をみつけて、やっと手に入れた生物学史の資料を必死になって読む、素人研究者であった。この学会は、私が初めて挑んだ他流試合であり、そんな地方の一会社員からすれば、中村禎里氏は、生物学史の一大権威であった。
 地方の理科少年であった私は、反権威・反中央・反官僚の牙城と信じて、京大理学部に入った。だが2年目の冬に、思いもかけず大学紛争(当時は大学闘争と言った)が勃発し、目の前の大学は、一転して、潰さなくてはいけない旧体制に変わった。そして、思い知らされたのは、石を投げても大学は変わらない、という単純な事実であった。だが、あれだけの犠牲を払った以上、絶対に何かが変わらなければならないし、変わったはずなのである。
 私は、生涯、大学の人間と同じ空気を吸うことはしまい、と心に決めた。だれが稼いだ金かわからない税金を、自分の好奇心と業績のために何の痛痒もなく消尽する、無神経で傲慢なこの種の人間を呪い潰してやろうと思った。そのために考え出した戦略は、ごく普通のサラリーマンが、自分の時間と資力だけで、大学の研究者と同格の研究業績をあげ、一般人でもこれだけのことができるのに大学研究者はざまは何ごとか、と批判し続けることであった。しかも単なる反体制ではないことの正当化論として、真理を探究する権利は個人にあり、これを行使する者は、国の研究費削減を主張する立場にある、と考えた。こういう角度からの批判に曝されてはじめて、大学は良い方向に変わっていくはずなのだ。
 私は当時の若者がそうであったように、手負いの狼のような眼をアカデミズムに向け、隙あらば攻撃しようと身構えていた。大学教官が敵であることはもちろん、これにすり寄る大学院生も同類であった。そのなかで、なぜか敵意なしに話ができたのは、山梨大学から京大動物学教室に転任されたばかりの、白上謙一(1913~1974)教授ただ一人であった。この間の事情は『独学の時代』(1)に書いておいた。その白上教授が、「こんなものもあるけど、もっと皆勉強しないとねえ・・・」と示されたのが、『生物学史研究』の一束であった。当時、私は、科学史研究は科学の現状批判としてのみ意味があると考えていたから、眠ったようにみえる『生物学史研究』の論調にひどく落胆した。
 こうして目論見通り、郷里に帰って就職し、ハンス・ドリーシュの資料を読み始めた。そして、1974年2月に、東工大で開かれていた生物学史分化会の月例会で、「ドリーシュの生気論」というタイトルで発表した。研究会の後、大岡山の駅前の居酒屋でビールを飲んだが、この時はじめて、中村禎里氏にお会いした。
 このとき氏は、「僕は生物学史では、白上先生の押しかけ弟子でね、君と僕とは兄弟弟子だな」と言われた。
 これ以降、ときおり上京して月例会に参加するようになり、研究会後の酒席で中村禎里氏と同席するようになった。ところが私の方は、中村氏を、在野の研究者がぶつかるべき生物学史の大権威と一方的に決め込み、あれこれ議論を挑んだ。そんな空気を見かねて、筑波氏がわざと中村氏と私の間を割って席をとることもあった。だが程なく、これは私の一人相撲であることに気がつき、態度を改めた。
 1975年9月初めに、中村禎里氏から、三菱化成生命科学研究所で生物学史専任の研究者を公募しているので、これに応じるように、という電話をいただいた。この間の事情も『独学の時代』に書いておいたが、私の方は、そもそも市井の研究者として一生を送る覚悟であり、そのように人生を設計し、自ら退路を断ったつもりであった。だから、生命研の応募資格をまったく満たしていなかった。しかし、中村禎里氏に説得されるかたちで応募すると、不思議なことに、書類レベルで数十倍の採用試験に通り、本社人事部の承認も、難産の末、採用が決まってしまった。こうして私の人生は、思いもよらぬ方向に転がり始めた。中村氏が無ければ、いまの私は無い。
 ただし、科学史の研究者としてはかなり遅いスタートである。そして、私の生命研採用が決まったら決まったで今度は、米本はアメリカ帰りの一流の研究者ばかりの中でやっていけるのか、と心配してくださった。
 私が属すことになった社会生命科学研究室は、中村桂子室長・主宰の下、当時アメリカで激しい論争を引き起こし始めていた「遺伝子組換え論争」を、室員が一丸となって追いかけていた。これには心底、驚いた。しかし考えてみると、遺伝子組換え論争は、生物学と社会との間にまったく新しい形の問題をもたらすことは明らかであった。私は科学史担当ということで、まだ傍系の議論であった優生学史を研究のテーマに選んだ。

東大教授の恫喝——優生学史研究を始めたころ


この時、1970年に『生物学と社会』(2)という本を出された中村禎里氏がどのような論を展開されるのか、研究室の人間が関心を払っていた記憶がある。

2.『ルイセンコ論争』の本人評価と「生物学と社会」
 広義の「生物学と社会」という観点からも『ルイセンコ論争』(3)が、中村氏を代表する一書あることは論をまたないであろう。ただし当初、本人はこれを研究成果とは考えなかった。新しい事実を発見したり発掘するのが学術研究という、旧来型の価値観にたっていたらしい。初版あとがきの冒頭にこうある。
 「この著作は私の研究成果といったたぐいのものではない。そうとうのエネルギーを費やしたのだから苦労はしたが、著作のねらいや内容からいうと一種の“白書”である。戦後日本の科学思想史で重要な位置をしめるルイセンコ論争の全貌をまとめ、のこしておこうと、私は考えた」。
 だがこうして書きとめられた、スターリン主義と生物学、海外における論争の受容とその拒絶、科学研究と党派性、進化論の問題、ミチューリン運動の消長・・・という諸課題が、広義の「生物学と社会」でなくて何であろう。敗戦直後から、10数年にわたって繰りひろげられた日本でのルイセンコ論争について、この時点(1960年代前半)で分析の対象としようと決断することがいかに大変なことで、その作業がどれほどエネルギーを使い神経をすり減らすことであるかは、いまでは想像すらできない。論争の当事者の大半が存命であるどころか、第一級の現役研究者であり、研究者間の利害や思想的対立が激しかった時代である。この場合、唯一許されるのは、原資料を徹底的に集め、これに厳格に依拠しながらバランスのとれた総括的記述に撤する、科学史という立場である。そしてこれに成功するか否かは、全当事者がその成果物に対して、近過去についての妥当な著述であると、無言の同意を示すか否か、の一点にかかっている。そして中村氏の初著作である『ルイセンコ論争』は、この関門をみごと突破したのである。
 中村氏は30年後の再版のあとがきで、この本の成立事情を明らかにしている(4)。本の原稿はできたが、どこの出版社も引き受けてくれず、教師のボーナス1回ぶんをはたいてタイプ印刷したものを、岡部昭彦(1929~2013)、筑波両氏が、書評でとりあげてくれ、それがみすず書房につながったこと。そして日本のルイセンコ論争を語るためにも、戦後日本のマルクス主義科学論争史の執筆を準備していたこと、である。
 この書かれなかったマルクス主義科学論争史は、別の形で取り組むべき、残された重要課題である。敗戦翌年の1946年に成立した民主主義科学者協会(民科)が成立した。その設立発起人には、朝永振一郎や天野貞裕(後の文部大臣)など、文系理系を問わず、幅広い研究者が名を連ねたが、多くはマルクス主義者であった。民科は、民主主義化の政治を重視しため、組織としては次第に衰退していくが、共産党を離れてなおマルクス主義である科学者が長く影響力をもち続けた。この時代に京大動物学教室の大学院生であった岡田節人(1927~2017)は、少なくない大学教官が、ルイセンコ派にたつイデオロギーの時代であったことを述懐している(5)。民科生物部会とイデオロギー問題は、冷静かつ包括的に分析されるべき課題である。
 近年、地学では泊次郎著『プレートテクトニクスの拒絶と受容』(2008)(6)という労作が出た。これは、民科とは別に、1947年に地学団体研究会(地団研)を組織して地団研の天皇といわれた井尻正二(1913~1999)の存在によって、プレートテクトニクス理論の、日本への受容が大幅に遅れた事情を扱っている。この中で、中村禎里氏の成果に依拠しながら、政治イデオロギーと地学理論の関係がルイセンコ論争との対比で考察されている。

3.大学紛争の評価
 『ルイセンコ論争』で確立させた、徹底的に原資料に沿う、考えてみれば科学史家としては当然の、だが実際にはたいへん難しい研究姿勢は、その後の中村氏の人生を貫いている。マルクス主義科学論とは別に、中村氏の視界には科学者運動があった。だが4歳年長で、早くから物理学史で実績を積んでいた広重徹(1928~1975)が、1960年に『戦後日本の科学者運動』(7)を著していた。中村氏はこれに続く1960年代の科学者運動を、『危機に立つ科学者――1960年代の科学者運動』(1976)としてまとめたが、「あとがき」にあるように、これは気が進まない作業だったらしい(8)。書かれたものから中村氏の考えを推し測ると、氏の原体験にある九州大学時代の学生運動に重なるような、戦後日本の科学者運動という枠組みが辛くも有効なのは1960年代半ばまでであり、1960年代末の大学紛争から問題の次元が変わった、と感じざるを得なくなったのであろう。
 中村氏の気持ちに引き寄せると、自らが体験した学生運動と1960年代末の大学紛争、とくに東大闘争の質に、生理的な違和感があったからだと思う。と言うもの、『危機に立つ科学者』では東大全共闘の扱いが相対的に小さい上に、このような記述があることである。
 「東大全共闘の組織形態は中央集中を排し、自発的出退無定形をむねとしており、この点でベ平連運動と軌を一にしている。東大ベ反戦の運動思想と東大全共闘の思想とのつながりはさらに直接的である。・・・ベ反戦の最首悟、山本義隆などは、やがて東大全共闘連、助手共闘、全共闘のリーダーとして姿をあらわすことになる。ただし、東大全共闘などのばあい、個人の自発的連合体としての性格は、ノンセクト・ラジカルの視点からみた一種の理想型的な面もあり、全共闘後期にはとくにそうであった」。
 最後の表現が何を意味しているのか、いまの人には、理解不能であろう。これは、東大安田講堂籠城に対する婉曲的な批判である。要求と闘争の形を考えることなく、理想主義的な理屈だけを膨らませ、端から自爆とわかっている道を選んだことへの、運動の下位の者に対する配慮の無さに対する批判である。もっと言えば、つねに東大が不可避的に負わざるを得ないエリート臭に対する、氏の生理的な嫌悪である。ただしこの時、京都という地方の学生であった私には、彗星のように現れた東大全共闘議長・山本義隆という名は、遥かに見上げるまぶしい存在であった。その東大全共闘は、自己批判から自己否定へと突き進み、最後は東大解体を叫んだ。この誠実でラジカルな論理展開に、私は完全に魅せられた。
 中村氏は、大学紛争という体験を踏まえた上での科学技術のあり方を論じることが、死活的に重要であることを認めながら、その理論的枠組みはいまだ成熟していないか、行方不明であると、考えた。そういう考えの一端が出ているのが『現代の科学・技術論』(1972)の「あとがき」である(8)。この本は、中村氏が一世代若い研究者とともに、大学紛争後に改めて科学技術を論じるための立脚点を求めようとした著作である。その「あとがき」を、中村氏はこう結んでいる。
  「若い執筆者たちが、大学闘争をひとつのあらわれとする自らの世代的体験を思想化することによって、科学技術論に新しい視野をもたらすよう、私はかねてから期待していた。ムード的議論はおそらく充分以上にすでに世に出ているが、学問的説得力をもった仕事は欠けていると考えていた。本書の企画は、このような不満をみたす好機であると私は考えたのである」。
 ただしこれ以降は、中村氏は狭義の科学史や科学論から手を引かれることになる。
いいだもも(1926~2011)が中心となって1979年に発刊した『季刊 クライシス』は、1980年7月に、柴谷篤弘(1920~2011)、中山茂(1928~2014)などが声をかけて、山形県姥湯温泉で、科学技術論に関する理論合宿を行った。若手の中に、高木仁三郎(1938~2000)や、吉岡斉(1953~2018)や私がいた。主催した側は、中村氏にも声をかけたとは言ったが、やはり参加されなかった。ただし、その時の論集『季刊 クライシス』4号に、この時期の中村氏としては例外的に、「ミチューリン運動回顧」という一文を寄稿された。その中にこういう表現がある(10)。
 「知識人を私の基準で品格区分すれば、変革実践家が上品、カタカナ英語で危機をうれうる思想家は中品、何もせず言いたい放題、大の字になり寝そべって妄言多謝などとうそぶいている私ごときは、もちろん下品」。
 自らを最下段に置くことで、この種の科学技術批判の試みそのもの――クライシスというカタカナ英語――に対する、明確な皮肉である。これは、知的社会全体が真綿で首を絞められたように沈滞したままにある現状に対して、わが身を含め、やり場のなさを素直に吐露したもの以外の何ものでもない。そして同時に、中村氏の、われわれ後進に対する底知れぬ優しさは、かつての激しい学生運動の体験の裏返しであった。

4.残された課題、そして冷戦科学という視点
中村氏は、1970年代初めを境に、狭義の科学史と科学社会学の研究から離脱されたように見える。そしてこの前後に、生物学も生命科学へと看板を変え、内容も体制も大きく変化し始めた。氏は、確実に実証されることしか文字にされなかったから、意識的に語られなかったことこそ、後生に託された課題と考えるべきであろう。
 戦後日本の科学が被った社会的な諸課題は、広重著『戦後日本の科学運動』、中村著『危機にたつ科学者』、同『ルイセンコ論争』の三書に、集約されているのだと思う。科学の体制化と、科学とイデオロギーとの桎梏である。それから半世紀が経ち、科学そのものも、その環境も激変した。半世紀後のわれわれが、この三書から受け継ぐべき最重要の点は、科学に対する対等な目の高さである。
 いまのわれわれは、巨大なセクターとなりおおせた現代の生命科学に対して正面から向き合い、これに根源的な批判の目をむける努力を怠ったってきた。半世紀前まで、生物学は物理学に対して劣等意識があった。数学的な一般理論を確立させていない、記述的な段階にとどまっている、という理由である。それを強烈なかたちで表現したのが、柴谷篤弘著『生物学の革命』(11)であった。その後、生物学は、柴谷が示唆した分子生物学革命を経ることで、物理科学と同格であるという意識を獲得し、今日の地位を既成事実化したのだが、この過程で、生物学史は分子生物学を啓蒙する側に立ち、いまなおその意識の下にある。つまり、“生物学史 vs 生命科学”と並置したとき、生物学史は、生命科学がその成果だと主張するものを拝跪する立場になおある。
 比喩を用いると、小説について第三の立場からこれを批判し分析するのが文学であり、大学には多くの文学部がある。翻って、現代や近未来の社会にとって、小説と科学のどちらがより影響力をもつかと問われれば、それは科学であろう。しかし、いまの日本に、科学と対等の視点からこれを論評する知的活動は、ほぼ皆無である。伝統的な科学観に立てば、科学はつねに体系的懐疑にかけられているべきであり、それこそが真理性を保証するものである。残念ながら、現在の生命科学の内側に内在的批判のエネルギーがあるようには見えない。であるならば、科学史・科学哲学がその機能を担うべきなのだ。穏便な表現をとれば、現在の生命科学のあり様を系統的に精査し論評する(ドイツ語でいうKritik)視点に、意図して生物学史は立つべきなのだ。
 例えば、現在の生命科学は分子生物学の上に築かれたと言うが、その実態は“生化学の圧勝”でしかない。それは、科学哲学で言う、いわゆる分子還元主義ではない。生命的自然の承認手続きとして、対応する分子もしくは分子的変容を捉えないかぎり、科学的真理としては認めない、というのがいまの生命科学である。これは、生命的自然を生化学へ転写するという手続きをもって、科学的真理とする自然哲学に立っていることである。こういう生命科学の実態について、生物学史は深く掘り下げて考察すべきであろう。
 また別の課題としてあるのは、戦後日本の意識の中で、冷戦という事態を米ソの国際関係で理解し、冷戦を実現させた巨大な科学技術体系についての科学史的・文明論的な視点について、恐ろしく希薄であったことである。これは、広重・中村世代の視野には入ってはいなかった。事実、広重徹の『戦後日本の科学運動』では、スプートニク・ショックは、ほんの一行(p.110)、触れられているだけである。だが、1990年代に発表された、主にアメリカの科学史家による冷戦研究によれば、スプートニク・ショックこそが、アメリカが核兵器体系の構築に科学技術を大動員することになった直接のきっかけであった。科学技術を含め、20世紀後半の世界を決定づけたのは冷戦であったのであり、少なくともこれに関する研究を咀嚼しないで21世紀を論ずることは、大きな欠陥をかかえていることを意味する。
 最後に、いま一つの大きな課題は、科学研究の一般社会への解放である。かつての中村禎里氏には、科学研究への参加は絶対平等であるべきだとする理想主義があった。さすがにこのような考え方は、いまではあまりに現実離れしたものである。しかし、研究活動を職業研究者の占有から一般の人間へも開放し、その面白さと苦しさの両面を味わえるような状況へ道筋をつけることは、21世紀人に課せられた使命であると思う。
  中村氏は、自分の思いが理想に過ぎることは承知のうえで、それをさらりにと述べられ、それがまた、清々しくもあった。そういう志をこそ、われわれは受け継ぐべきであろう。


(1)米本昌平『独学の時代』NTT出版、2002年
(2)中村禎里『生物学と社会』みすず書房、1970年
(3)中村禎里『ルイセンコ論争』みすず書房、1967年
(4)中村禎里 「30年を経て――アマチュア研究者とスターリン主義」『日本のルイセンコ論争』みすず書房、1997年
(5)中村桂子・編著 『生命研究のパイオニアたち』化学同人、2007年
(6)泊次郎『プレートテクトニクスの拒絶と受容』東京大学出版会、2008年
(7)広重徹『戦後日本の科学運動』中央公論社、1960年
(8)中村禎里『危機にたつ科学者』河出書房新社、1976年
(9)中村禎里・里深文彦編『現代の科学・技術論』三一書房、1972年
(10)中村禎里「ミチューリン運動回顧」『クライシス』4(1980)55
(11)柴谷篤弘『生物学の革命』みすず書房、1960年