ニセ仙人山籠もり

雑記

『バイオエピステモロジー序説』の「あとがきに代えて」(再録)とフッサール

フッサール現象学の適用に向けて 昨年(2020年)末、私は、これで最後にするつもりで『バイオエピステモロジー序説』を書いたのだが、いざ本にしてみると、どうも納得がいかない。登ろうと思っていた山の頂に、いざ立ってみると、さらにその奥に、本当に登りたかったのはまさにあれなのだ、と思わせる峰々が現れるのだ。いまは、二〇世紀精神史を総括する視点から、もう一冊、『生命科学の危機と二一世紀の自然哲学』という本を書こうと思っている。 言うまでもなく、このタイトルは、E・フッサール(1859~1938)の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を踏まえたものである。いまの私に課せられているのは、前世紀前半にフッサールが構築した超越論的現象学の枠組みを、現在の生命科学に適用し、二一世紀の自然哲学的地平を一新させることだと思う。 それを、バイオエピステモロジーの用語で表現すればこうなる。フッサールは、われわれが「人間的近傍」に住まうことを運命づけられている事態であることを踏まえ、われわれの世界把握のあり方について、メタ的視点に抜け出る直前の斜面に哲学理論を構築し、その上に一切の自然科学を基礎づけようとしたのである。それが、「超越論的現象学 die transzendentale Phänomenologie」なのだ。ここで重要なのは、1930年代に「ヨーロッパ諸学の危機」と言えば、その一端は、H・ドリーシュ(1867~1941)によってもたらされたことである。われわれは、同時代人である「フッサール=ドリーシュ問題」を読み解いた後に、現在、不動のものと思われれている「薄い機械論」という自然哲学向けて、その脱構築に着手しなければならないのである。  この次作への繋ぎとして、『バイオエピステモロジー序説』の「あとがきに代えて」の項を再録しておく。なお、この文章は、本ブログの「バイオエピステモロジー入門 その1」を全面的に組み込んだものであることを、お断りしておく。 [終章の最終部分から] 若かった遠い昔、いつか登りたいと心に決めた山の頂きが、かすかに望める地点にたどり着いたようである。それは、まだ誰の視界にも入っていない未踏峰で、標高すら定かでない。嶮しい尾根の肩や、遠い峠にも這い上がり、その頂きの位置と登坂ルートを確かめながら、少しづつ距離を詰めてきた。いま、取りつき点と思える長大な尾根の…

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再録:中村禎里の開いた世界・生物学と社会

『生物学史研究』(No.92 2015年9月、p.64~70)「シンポジウム・中村禎里と冷戦期日本の生物学史研究」を、再録する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中村禎里が開いた世界・生物学と社会 米本昌平 1.中村禎里氏との出会い  ここに1枚の写真がある。1975年6月、同志社大学で開かれた第22回日本科学史学会の2日目(6月8日)、大会の看板を前に、生物学史の関係者10名が集まった記念写真である。最後列の左から、里深文彦(1942~2010)、中村禎里(1932~2014)、筑波常治(1930~2012)の3氏と、右端に28歳当時の私が写っている。私の右腕が筑波氏の前にあるのは、生物学史の関係者で写真と撮ろうということになり、私は加わってよいものか迷って、離れた位置にいたのを、「君、そんなところにいないでもっと寄れよ!」と、筑波氏がぐいと私を引き寄せたからである。私は、左手に持っていた荷物を置く暇もなく、それを背中に隠して、皆と一緒に写真におさまった。満面の笑みをうかべる筑波氏の反対側には、中村禎里氏がいた。  当時、私は郷里の証券会社で働きながら、通勤電車の中とわずかな休日の時間をみつけて、やっと手に入れた生物学史の資料を必死になって読む、素人研究者であった。この学会は、私が初めて挑んだ他流試合であり、そんな地方の一会社員からすれば、中村禎里氏は、生物学史の一大権威であった。  地方の理科少年であった私は、反権威・反中央・反官僚の牙城と信じて、京大理学部に入った。だが2年目の冬に、思いもかけず大学紛争(当時は大学闘争と言った)が勃発し、目の前の大学は、一転して、潰さなくてはいけない旧体制に変わった。そして、思い知らされたのは、石を投げても大学は変わらない、という単純な事実であった。だが、あれだけの犠牲を払った以上、絶対に何かが変わらなければならないし、変わったはずなのである。  私は、生涯、大学の人間と同じ空気を吸うことはしまい、と心に決めた。だれが稼いだ金かわからない税金を、自分の好奇心と業績のために何の痛痒もなく消尽する、無神経で傲慢なこの種の人間を呪い潰してやろうと思…

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謎の人:柴谷篤弘

 2年前の秋、大学山岳部の同期が、妙高高原の笹ヶ峰にある京大山岳部ヒュッテに集まったことがある。そのとき偶然、ヒュッテの本棚に、『行く手は北山 その彼方』(北山の会「京都一中山岳部史編纂委員会」、2003)という、魅力的な本を見つけ、どうしても手に入れたくなった。その事務局にメールをしてみたら、なんと事務の責任者は、山岳部後輩で、剣合宿にいっしょに行った高鍬博氏だった。「非売品だし、在庫もない」ということだったのだが、高鍬氏は関係者の間を回って、まもなく私の願いをかなえてくれた。  それにしても、こういう高校山岳部が存在するとは、仰天するばかりである。私のこころ奥深くに刻まれている、はるか昔に消滅してしまった愛知県立旭丘高校山岳部とは雲泥の差である。一片の嫉妬すら抱きようのない、まったくの格の違いである。  荒神橋あたりから北を見やると、緑の北山がえんえんと重なり、そのはるか先には白い未踏の山々が控えているのではないか、という幻想に誘い込まれるような、独特の雰囲気があるのだが、それがこの本にはうまくとらえられて、詰まっている。  ところがである。本をパラパラめくっていたら、とんでもないことを見つけてしまった。 左から4人目が柴谷篤弘、土倉九三、梅棹忠夫の各氏。同書p.251より  後半の「第5章 京一中山岳部のことども」の「第2節 山岳部の黄金時代を築いた部員たち」の項に、柴谷篤弘(1920~2011:本名は横田篤弘)氏が、梅棹忠夫(1920~2010)氏らとともに登場し、大いに議論をしているのである。  となると、柴谷氏は京都一中山岳部を通して、今西錦司(1902~1992)氏の山登り仲間の紛れもない後輩に当たる。ふつう、こういうことは自慢げに話すものなのだが・・・。  だが、私が『進化論も進化する』の対談本で二氏にお目にかかったとき、二人はそんな素振りはいっさい見せなかった。そもそも、この対談が成立したのは、柴谷氏が『今西進化論批判試論』(朝日出版社、1981)を出版したのが理由なのだが、いざ二人を引き合わせてみると、なんとお互いに初対面であることを告白したのである。  今西・柴谷対談は、当時、二条大橋の西詰にあった「ホテルフジタ」の庭の別邸で、2日間かけて行われた。ただし、1日目は議論はあまり進まなかった。  柴谷篤弘という人は、文章上はたいへん押しが強いとい…

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ウィキペディア被害者同盟を!

 日本語版ウィキペディアを、私がぜんぜん信用しなくなった事情を書いておこうと思う。

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今はいない、無二の友

 思いたって、今日(2017年11月5日)、今は無き、無二の友のお墓参りをしてきた。11月6日は彼の七回忌である。

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商品としての研究——不便なところに商機あり

 京都大学人文科学研究所で開かれた、「生物学史夏の学校」の今年のテーマが「オープンサイエンス」であったので、9月23日(土)だけ参加した。ただし現在の日本では、オープンサイエンスという概念は、まだまだ生煮えの状態にあると思う。それにつけても、いまから12年前に書いた「商品としての研究」という記事を配布して、もっと積極的に議論に加わるべきであった。反省することしきりである。  そこで、この記事を少し修正して再録しておく。

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ブログ再開

 5年間、ブログを放置していたが、再開する。  理由はたくさんある。一つは、最近、ネットサーフィンをしていて迷い込んだついでに、facebook を始めたのだが、意外にこれが窮屈な感じだったからである。なかでも「友達」という概念を強制され、判別させられることが苦痛である。  『論語』の、「七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」という一節が、文字通り、腑に落ちるようになった。書きたいことがわき上がってきたら、すぐに文章にしてしまおうと思う。寝床の横にパソコンがあるいまは、ほんとうに理想的である。

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なぜ、ブログか

 恥ずかしながら、ブログを始めることにした。  理由は、要約すると二つになる。  一つは、これまで活字にしてきたこと、もしくは活字にできた内容とは異なったものを、誰かに向かって言いたくなったからである。このことは、活字・メディアにはある種のスクリーニングがかかっていることを意味する。考えてみれば、それは当然で、これらには社会的媒体として責任があるからである。だとすれば、私にとって、ブログはおあつらえ向きの手段ということになる。

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