ニセ仙人山籠もり

科学評論

吉岡斉——若き日の志

再録:故・吉岡斉氏の追悼集が出版されるはずであったが、連絡がないので、ここにアップすることにした。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  在野の生物学史の研究者であった私は、1976年4月から、三菱化成生命科学研究所に採用され、村上陽一郎・助教授(当時)の特別の計らいで、その夏から、東大教養学部の科学史・科学哲学(科哲)研究室に、出入り自由の扱いにしていただいた。この時代、東大駒場は、紛れもない日本の知の中心地のひとつであり、科哲(かてつ)はその一角を成す、光り輝く研究室であった。  なんとかその一員として認められ、まわりを見渡すだけの余裕ができると、私のすぐ前を、恐ろしく切れる大学院生が独走しているのがわかった。本郷の理学部物理学科から転進してきた吉岡斉(1953~2018)という修士一年の院生である。彼が転進してきた1976年には、「東大科学史・科学哲学研究室ドクサ研究会」が発足し、手作り感のある、手書き原稿を製本した『ΔΟΞA(ドクサ)』の刊行が始まったところであった。その第2~3号に掲載された「科学者共同体とは何か——科学社会学の共通認識をもとめて(上、下)——」(Vol.1 No.2 & Vol.2 No.1, 1976~77)は、英米で展開されている新興の科学社会学についての、堂々たる総説であった。科哲の院生なら、この程度のものは軽々と書きあげて当然という気迫の、圧倒的な存在感のある作品であった。  そうこうするうちに、中山茂氏(1928~2014)が若手の科学史研究者を集めて、日本独自の学問の成立や、戦後日本の自然科学の発展過程を研究するチームを組まれ、私にも声がかかった。こうして、物理学の吉岡氏と生物学の私は、自然とペアを組むようなかたちになった。  いま振り返ると、二人の科学評論の力が鍛えられたのは、中山氏が、1981年1月~1984年3月の3年間、『朝日ジャーナル』の「文化ジャーナル」欄のなかに「サイエンス」を設けるよう依頼され、中山、藤原英司(自然保護)、高木仁三郎(原発問題)、吉岡斉、米本の5人で、これを担当したことではなかったかと思う。中山氏は、「こんど『朝日ジャーナル』の編集長になった筑紫哲也(1935~2008)がぼくの友人でねぇ・・・」と事情をもらした。  毎月一回、築地の朝日新聞に集まって、科学部がとっている英…

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再録:中村禎里の開いた世界・生物学と社会

『生物学史研究』(No.92 2015年9月、p.64~70)「シンポジウム・中村禎里と冷戦期日本の生物学史研究」を、再録する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中村禎里が開いた世界・生物学と社会 米本昌平 1.中村禎里氏との出会い  ここに1枚の写真がある。1975年6月、同志社大学で開かれた第22回日本科学史学会の2日目(6月8日)、大会の看板を前に、生物学史の関係者10名が集まった記念写真である。最後列の左から、里深文彦(1942~2010)、中村禎里(1932~2014)、筑波常治(1930~2012)の3氏と、右端に28歳当時の私が写っている。私の右腕が筑波氏の前にあるのは、生物学史の関係者で写真と撮ろうということになり、私は加わってよいものか迷って、離れた位置にいたのを、「君、そんなところにいないでもっと寄れよ!」と、筑波氏がぐいと私を引き寄せたからである。私は、左手に持っていた荷物を置く暇もなく、それを背中に隠して、皆と一緒に写真におさまった。満面の笑みをうかべる筑波氏の反対側には、中村禎里氏がいた。  当時、私は郷里の証券会社で働きながら、通勤電車の中とわずかな休日の時間をみつけて、やっと手に入れた生物学史の資料を必死になって読む、素人研究者であった。この学会は、私が初めて挑んだ他流試合であり、そんな地方の一会社員からすれば、中村禎里氏は、生物学史の一大権威であった。  地方の理科少年であった私は、反権威・反中央・反官僚の牙城と信じて、京大理学部に入った。だが2年目の冬に、思いもかけず大学紛争(当時は大学闘争と言った)が勃発し、目の前の大学は、一転して、潰さなくてはいけない旧体制に変わった。そして、思い知らされたのは、石を投げても大学は変わらない、という単純な事実であった。だが、あれだけの犠牲を払った以上、絶対に何かが変わらなければならないし、変わったはずなのである。  私は、生涯、大学の人間と同じ空気を吸うことはしまい、と心に決めた。だれが稼いだ金かわからない税金を、自分の好奇心と業績のために何の痛痒もなく消尽する、無神経で傲慢なこの種の人間を呪い潰してやろうと思…

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再録・中村桂子さん——人と仕事

 2019年に、藤原書店が、『中村桂子コレクション』(全5巻)を出版したが、私はその『月報 3』(2019年10月)に「中村桂子さん——人と仕事」を書いた。その全文を再録しておく。 ・・・・・・・・・・・・ 中村桂子さん——人と仕事  ついに、中村桂子さんのことを書くことになった。なんとも落ち着かない気持である。というのも、私は、1976年に三菱化成生命科学研究所・社会生命科学研究室という名の、中村さんが主宰する研究室に、文字通り拾われ、中村さんが1989年に転出されるまでの13年間、私の上司であったからである。その後まもなく中村さんは生命誌研究館を立ち上げられた。  近しいといえば、私にとってたいへん近しい人なのだが、それをいいことに、中村さんの考え方は、だいたいわかっているつもりであった。  これもまた私の悪い癖なのだが、ある日、ふらりと、初期の生命誌研究館を訪ねたことがある。その研究館に足を踏み入れたとたん、ああ、中村さんがやりたかったことはこういうことだったのか、と瞬時に得心がいった。そして、うろたえた。  いくらたくさん文章を書いても、また、口をすっぱくして繰り返しても、伝わらないものは確実にある。それを伝えるためには、実際に形にしてみせるよりない。そのためには、その考えに共感して金を出すスポンサーが現れないといけないし、実際にその考えにそって形にされるものを、ごく当然のものとして受け入れ、未来に向けて行動する人たち(その代表が生命誌研究館のスタッフたち)がいて初めて、簡単には言葉では伝わらない、この場合は「生命誌」なるものの実体に、われわれは出会うことができる。  実は、この文章を書くために、書棚の山から『生命誌とは何か』(講談社学術文庫)と、『自己創出する生命』(ちくま学芸文庫)をみつけ、ふたたび精読してみたのだが、多くの人は、中村さんの柔らかで平明な言葉遣いに惑わされ、誤読するのではないかと心配する。  中村さんは、分子生物学から生命科学へと進み、1980年代以降、生命科学の現状に不満をもつようになり、最後に生命誌という概念にたどり着いたと、その過去をさらりと説明するのだが、この穏やかな表現からは、現在の生命科学のあり方に対する厳しい眼差しといらだち、そして、生命について徹底した考察の末であることが、きれいに拭われている。  そもそも中村さんは、DN…

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木村資生氏の思い出(『中央公論』1995年1月号)

 本棚を整理していたら、1971年4月に、木村資生(1924~1994)氏が京大理学部で行った、集団遺伝学の集中講義用のガリ版刷りのテキストが出たきた。1968年に中立進化説を発表し、世界的な大論争の渦中にあったときである。  かなり、書き込みがあり、めずらしく全部聴講したらしい。  木村氏が亡くなったのは、1994年11月13日である。その直後に『中央公論』から2頁ぶんの追悼記事を依頼された。急遽、資料を集めて1週間ほどで書き上げた原稿が、ギリギリで間に合い、12月10日発売の同誌1995年1月号に掲載された。  「木村資生氏は遺伝学に何を残したか」というタイトルの文章(同号p.106~107)を再録しておく。 ————  進化の中立説で有名な、国立遺伝学研究所名誉教授、木村資生氏が逝去された。享年70歳。しばしば、第一級の自然科学者をさして、ノーベル賞級という賛辞が与えられることがあるが、木村氏の場合、これは単なる言葉のあやではなかった。ノーベル医学・生理学賞の受賞に、もっとも近かった日本人の一人であったことは、まぎれもない事実である。  伝統的にノーベル賞は、第一に圧倒的な独創性を、第二に、重要な仮説を提出し、それが後に実証され広く認められるようになったものを、高く評価してきた。しかし最近では、自然科学が大型化し、プロジェクト化してきたため、このような古典的ともいえるノーベル賞のイメージにピタリあてはまるような研究業績が出にくくなっていたからである。  木村資生氏は、1924年、愛知県岡崎市に生まれた。京都大学理学部時代に、タルホコムギの研究で有名な木原均教授の薫陶をうけ、遺伝学に興味をもった。当時の遺伝学は染色体分析が中心であったが、木村氏はまったくの傍流であった集団遺伝学を選んだ。数学を駆使する、その美しさに魅かれたのであろう。しかし日本では、この領域の研究者は極端に少なく、理解者も皆無に近かった。国立遺伝学研究所に職を得たのち、アメリカに留学して、集団遺伝学の大物、クロー教授の下で研究できたことが、大いなる自身につながったに違いない。  遺伝とは、親の形質が子に伝わる現象である。ただし集団遺伝学の立場は、遺伝学としてはかなり異質で、親子関係ばかりか、個々の生物個体までをも消し去り、生物集団としての遺伝子の頻度とその世代間での変動を問題にするものである。学…

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バイオエピステモロジー入門 その1 最深度の科学評論

社会生命科学研究室・科学史担当  ふり返ると、私は人生の大半を、生命科学の最先端の研究活動のすぐ脇にいて、これをじっくり観察し考察をめぐらすのが仕事、というまたとない生活を送ったことになる。  1971年~2010年の40年間存在した、三菱化学(旧三菱化成)生命科学研究所は、民間の実験研究所でありながら、スポンサーである三菱化学は、‘金は出すが口は出さない’という原則を貫いた稀有な研究組織であった。私は76年に、その特別研究部門のひとつ、社会生命科学研究室(中村桂子室長)に採用された。  そもそもこの研究所は、東京大学理学部教授であった江上不二夫(1910~1982)博士に対して、1970年の夏、篠島秀雄(1910~1975)三菱化成社長が、初対面であるにもかかわらず、「自社の戦後再発足20周年事業の一環として社外に生命科学領域の基礎研究所を作ることを考えているが、その場合に所長を引き受けてもらえるか」と申し出たことが発端である(江上不二夫「めぐりあい 篠島秀雄さん」(『毎日新聞』1980年3月4日)。  この時代、企業は利益しか考えないものというのが常識であった。だから、日本学術会議会長(1969年~72年)でもあった江上博士が、一民間企業の研究所長になるというのは、普通ならありえない破格の出来事であった。当時の学術会議は政府への批判色を強めており、加えて江上博士自身、オパーリン(1894~1980)と親しいためソ連寄りの左翼的な知識人と見なされ、長い間、アメリカの入国ビザが下りなかった。  こんななか、東大教授職を投げうって民間の研究所長となる江上博士に対して、三菱化成の側は文字通り三顧の礼で迎えた。当然、研究所の構成とその運営について、江上初代所長の自由裁量にすべてを委ねた。こうして生命科学研究所は、江上構想に従って分子・細胞・個体・地球次元までの生命を対象とし、発足時には、発生生物学と脳神経生物学に焦点が合わせられた。 三菱化成生命科学研究所企画書 1970年  私の感覚でもとくに70年代は、隅々にまで江上不二夫所長の精神がゆきわたっていた。たとえば、生命とは何かという基本的な問いを真摯に問う姿勢が共有されており、研究者の間でラジカルな質問を投げかけあうことはたいへん好ましいことという共通了解があった。事実、科学史担当の私がふらりとある研究室を覗いて、ひどく…

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商品としての研究——不便なところに商機あり

 京都大学人文科学研究所で開かれた、「生物学史夏の学校」の今年のテーマが「オープンサイエンス」であったので、9月23日(土)だけ参加した。ただし現在の日本では、オープンサイエンスという概念は、まだまだ生煮えの状態にあると思う。それにつけても、いまから12年前に書いた「商品としての研究」という記事を配布して、もっと積極的に議論に加わるべきであった。反省することしきりである。  そこで、この記事を少し修正して再録しておく。

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孤高の人——今西錦司

私が、俗にいう‘今西進化論’の信奉者だと思っている人が意外に多いことに、最近、気がついた。そもそも、今西錦司氏本人ですら、ダーウィンの自然選択説を認めないからと言って、ご自分が独自の進化論を主張したとは、あまり思っておられなかったのではないか。

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