ニセ仙人山籠もり

科学哲学

黙殺され続けた「フッサール=ドリーシュ問題」と、『バイオエピステモロジー序説』「あとがきに代えて」の再録

  「フッサール=ドリーシュ問題」の発見 昨年(2020年)12月、私は、これで最後にするつもりで『バイオエピステモロジー序説』を書いたのだが、実際に本にしてみると、どうも納得がいかない。登ろうと思っていた山の頂に、いざ立ってみるとさらにその奥に、本当に登りたかったのはあの高まりなのだ、と確信させる峰が、つぎつぎ現れるのだ。いまは、20世紀精神史を総括する視点から、もう一冊、『生命科学の危機と21世紀の自然哲学』という本を書こうと思っている。 言うまでもなく、このタイトルは、E・フッサール(1859~1938)の晩年の名著、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』を踏まえたものである。20世紀の哲学に決定的な影響を与えたフッサールのこの代表作のなかには、エンテレヒー(Entelechie)という言葉が3回登場する。これらすべては、人類の内発的な秩序創造という意味で用いられている。いまのフッサール研究では、この言葉は、アリストテレスの文脈で解釈するのを、定番としている。むしろ、フッサールほど大学者が、たいへんまずい概念を不用意に用いた例外と見なし、見なかったこととして、通り過ぎるのが普通である。  だが当時、この言葉は、H・ドリーシュが提案したものであるのはまったくの常識であった。加えてこの時代、「科学の危機」と言えば、その一端は、H・ドリーシュ(1867~1941)によってもたらされたことも自明であった。実際、ドリーシュの自伝には、1912年(ベルリン)と1914年(ゲッチンゲン)のドイツ心理学会で、フッサールとドリーシュは幾度か討議をし、その後、非常に親しくなった、とある。だから次の本では、同時代人である「フッサール=ドリーシュ」問題を明らかにしたうえで、現象学的方法論を現在の生命科学に適用することで、「薄い機械論」の脱構築に向かいたい。  いまの私に課せられているのは、20世紀前半にフッサールが構築した超越論的現象学の枠組みを、現在の生命科学に適用し、われわれの自然哲学的地平を一新させることだと思う。それを、バイオエピステモロジーの言葉で表現すればこうなる。フッサールは、われわれが「人間的近傍」に住まうことを運命づけられている事態を踏まえ、その上で、われわれの世界把握のあり方について研究しようとした。そのためには、人間の世界把握についてメタ的視点に抜け出るのが良…

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再録:中村禎里の開いた世界・生物学と社会

『生物学史研究』(No.92 2015年9月、p.64~70)「シンポジウム・中村禎里と冷戦期日本の生物学史研究」を、再録する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中村禎里が開いた世界・生物学と社会 米本昌平 1.中村禎里氏との出会い  ここに1枚の写真がある。1975年6月、同志社大学で開かれた第22回日本科学史学会の2日目(6月8日)、大会の看板を前に、生物学史の関係者10名が集まった記念写真である。最後列の左から、里深文彦(1942~2010)、中村禎里(1932~2014)、筑波常治(1930~2012)の3氏と、右端に28歳当時の私が写っている。私の右腕が筑波氏の前にあるのは、生物学史の関係者で写真と撮ろうということになり、私は加わってよいものか迷って、離れた位置にいたのを、「君、そんなところにいないでもっと寄れよ!」と、筑波氏がぐいと私を引き寄せたからである。私は、左手に持っていた荷物を置く暇もなく、それを背中に隠して、皆と一緒に写真におさまった。満面の笑みをうかべる筑波氏の反対側には、中村禎里氏がいた。  当時、私は郷里の証券会社で働きながら、通勤電車の中とわずかな休日の時間をみつけて、やっと手に入れた生物学史の資料を必死になって読む、素人研究者であった。この学会は、私が初めて挑んだ他流試合であり、そんな地方の一会社員からすれば、中村禎里氏は、生物学史の一大権威であった。  地方の理科少年であった私は、反権威・反中央・反官僚の牙城と信じて、京大理学部に入った。だが2年目の冬に、思いもかけず大学紛争(当時は大学闘争と言った)が勃発し、目の前の大学は、一転して、潰さなくてはいけない旧体制に変わった。そして、思い知らされたのは、石を投げても大学は変わらない、という単純な事実であった。だが、あれだけの犠牲を払った以上、絶対に何かが変わらなければならないし、変わったはずなのである。  私は、生涯、大学の人間と同じ空気を吸うことはしまい、と心に決めた。だれが稼いだ金かわからない税金を、自分の好奇心と業績のために何の痛痒もなく消尽する、無神経で傲慢なこの種の人間を呪い潰してやろうと思…

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再録:ネーゲリの主著をもっていた!

ミネルヴァ書房は『究』という宣伝誌を出しているが、その2015年6月号の巻頭エッセイ「書物逍遥」に、私は、「ネーゲリの主著を持っていた!」という小文を書いている。それの内容を少し拡張して、再録しておく。 『究』2015年6月号の巻頭エッセイに補足。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ネーゲリの晩年の大著『進化論(由来説)の力学的・生理学的理論』(1884) 私の書棚に、羊皮背表紙の、厚さ5cmの洋書がある。40年ほど前、東大正門前の井上書店で、衝動買いをしてしまったものである。一見して、19世紀末の欧州で出版されてものと判る装丁で、当時の私の研究テーマとはまったく無関係であるのは明らかだったのだが、無理して購入した。確か、2万円だったと思う。考えてみると、井上書店に並んでいた生物学史関係で気になる本は、ほとんど買ってしまった。 最近これが、C・フォン・ネーゲリ(Carl Wilhelm von Nägeli:1817~1891年)の主著、『進化論(由来説)の力学的生理学的理論 Mechanischi-physiologische Theorie der Abstammungslehre』(1884)であることに気がつき、仰天した。巻頭の右肩には、Dr. C. ISHIKAWA の青色のゴム印がある。東京大学理学部動物学講座の最初の日本人教授となった、石川千代松(1860~1935)の所蔵本だった。石川は、19世紀末に、A・ワイズマン(August Weismann:1834~1914)の研究室に出向しているから、この折に購入したものに違いない。ネーゲリは、ミュンヘン大学の植物学の教授で、植物細胞の研究では一大権威であった。だが当時、ブリュンの修道院長を務めながら交配実験を行っていたG・メンデル(Gregor Johann Mendel:1822~1884)が、ネーゲリに論文別刷りを送っても、まったく評価しなかったため、科学史上は、真理を圧殺した旧権威として、たいへんに悪名高い学者ということになっている。ただし、最近では、このような読み方は適切ではないことが明らかになっている。 過去のそんな事情から、この本は、まず読まれることはない。しかも、日本にはほとんど入っていないようなのだ。東大は関東大震災(1923年)で図書館が消…

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木村資生氏の思い出(『中央公論』1995年1月号)

 本棚を整理していたら、1971年4月に、木村資生(1924~1994)氏が京大理学部で行った、集団遺伝学の集中講義用のガリ版刷りのテキストが出たきた。1968年に中立進化説を発表し、世界的な大論争の渦中にあったときである。  かなり、書き込みがあり、めずらしく全部聴講したらしい。  木村氏が亡くなったのは、1994年11月13日である。その直後に『中央公論』から2頁ぶんの追悼記事を依頼された。急遽、資料を集めて1週間ほどで書き上げた原稿が、ギリギリで間に合い、12月10日発売の同誌1995年1月号に掲載された。  「木村資生氏は遺伝学に何を残したか」というタイトルの文章(同号p.106~107)を再録しておく。 ————  進化の中立説で有名な、国立遺伝学研究所名誉教授、木村資生氏が逝去された。享年70歳。しばしば、第一級の自然科学者をさして、ノーベル賞級という賛辞が与えられることがあるが、木村氏の場合、これは単なる言葉のあやではなかった。ノーベル医学・生理学賞の受賞に、もっとも近かった日本人の一人であったことは、まぎれもない事実である。  伝統的にノーベル賞は、第一に圧倒的な独創性を、第二に、重要な仮説を提出し、それが後に実証され広く認められるようになったものを、高く評価してきた。しかし最近では、自然科学が大型化し、プロジェクト化してきたため、このような古典的ともいえるノーベル賞のイメージにピタリあてはまるような研究業績が出にくくなっていたからである。  木村資生氏は、1924年、愛知県岡崎市に生まれた。京都大学理学部時代に、タルホコムギの研究で有名な木原均教授の薫陶をうけ、遺伝学に興味をもった。当時の遺伝学は染色体分析が中心であったが、木村氏はまったくの傍流であった集団遺伝学を選んだ。数学を駆使する、その美しさに魅かれたのであろう。しかし日本では、この領域の研究者は極端に少なく、理解者も皆無に近かった。国立遺伝学研究所に職を得たのち、アメリカに留学して、集団遺伝学の大物、クロー教授の下で研究できたことが、大いなる自身につながったに違いない。  遺伝とは、親の形質が子に伝わる現象である。ただし集団遺伝学の立場は、遺伝学としてはかなり異質で、親子関係ばかりか、個々の生物個体までをも消し去り、生物集団としての遺伝子の頻度とその世代間での変動を問題にするものである。学…

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バイオエピステモロジー入門 その1 最深度の科学評論

社会生命科学研究室・科学史担当  ふり返ると、私は人生の大半を、生命科学の最先端の研究活動のすぐ脇にいて、これをじっくり観察し考察をめぐらすのが仕事、というまたとない生活を送ったことになる。  1971年~2010年の40年間存在した、三菱化学(旧三菱化成)生命科学研究所は、民間の実験研究所でありながら、スポンサーである三菱化学は、‘金は出すが口は出さない’という原則を貫いた稀有な研究組織であった。私は76年に、その特別研究部門のひとつ、社会生命科学研究室(中村桂子室長)に採用された。  そもそもこの研究所は、東京大学理学部教授であった江上不二夫(1910~1982)博士に対して、1970年の夏、篠島秀雄(1910~1975)三菱化成社長が、初対面であるにもかかわらず、「自社の戦後再発足20周年事業の一環として社外に生命科学領域の基礎研究所を作ることを考えているが、その場合に所長を引き受けてもらえるか」と申し出たことが発端である(江上不二夫「めぐりあい 篠島秀雄さん」(『毎日新聞』1980年3月4日)。  この時代、企業は利益しか考えないものというのが常識であった。だから、日本学術会議会長(1969年~72年)でもあった江上博士が、一民間企業の研究所長になるというのは、普通ならありえない破格の出来事であった。当時の学術会議は政府への批判色を強めており、加えて江上博士自身、オパーリン(1894~1980)と親しいためソ連寄りの左翼的な知識人と見なされ、長い間、アメリカの入国ビザが下りなかった。  こんななか、東大教授職を投げうって民間の研究所長となる江上博士に対して、三菱化成の側は文字通り三顧の礼で迎えた。当然、研究所の構成とその運営について、江上初代所長の自由裁量にすべてを委ねた。こうして生命科学研究所は、江上構想に従って分子・細胞・個体・地球次元までの生命を対象とし、発足時には、発生生物学と脳神経生物学に焦点が合わせられた。 三菱化成生命科学研究所企画書 1970年  私の感覚でもとくに70年代は、隅々にまで江上不二夫所長の精神がゆきわたっていた。たとえば、生命とは何かという基本的な問いを真摯に問う姿勢が共有されており、研究者の間でラジカルな質問を投げかけあうことはたいへん好ましいことという共通了解があった。事実、科学史担当の私がふらりとある研究室を覗いて、ひどく…

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自跋:『ニュートン主義の罠——バイオエピステモロジーⅡ』

 とくに見通しがあって書き始めたわけではないのだが、今回(2017年8月)、『ニュートン主義の罠——バイオエピステモロジーⅡ』(書籍工房早山)を出したことで、『バイオエピステモロジー』(2015年8月、同)、『時間と生命』(2010年9月、同)の“バイオエピステモロジー三部作”をまとめることができた。 もう一冊、わかりやすい集成版を書いてみたいと思っている。

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