ニセ仙人山籠もり

アカデミズム批判

再録:中村禎里の開いた世界・生物学と社会

『生物学史研究』(No.92 2015年9月、p.64~70)「シンポジウム・中村禎里と冷戦期日本の生物学史研究」を、再録する。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中村禎里が開いた世界・生物学と社会 米本昌平 1.中村禎里氏との出会い  ここに1枚の写真がある。1975年6月、同志社大学で開かれた第22回日本科学史学会の2日目(6月8日)、大会の看板を前に、生物学史の関係者10名が集まった記念写真である。最後列の左から、里深文彦(1942~2010)、中村禎里(1932~2014)、筑波常治(1930~2012)の3氏と、右端に28歳当時の私が写っている。私の右腕が筑波氏の前にあるのは、生物学史の関係者で写真と撮ろうということになり、私は加わってよいものか迷って、離れた位置にいたのを、「君、そんなところにいないでもっと寄れよ!」と、筑波氏がぐいと私を引き寄せたからである。私は、左手に持っていた荷物を置く暇もなく、それを背中に隠して、皆と一緒に写真におさまった。満面の笑みをうかべる筑波氏の反対側には、中村禎里氏がいた。  当時、私は郷里の証券会社で働きながら、通勤電車の中とわずかな休日の時間をみつけて、やっと手に入れた生物学史の資料を必死になって読む、素人研究者であった。この学会は、私が初めて挑んだ他流試合であり、そんな地方の一会社員からすれば、中村禎里氏は、生物学史の一大権威であった。  地方の理科少年であった私は、反権威・反中央・反官僚の牙城と信じて、京大理学部に入った。だが2年目の冬に、思いもかけず大学紛争(当時は大学闘争と言った)が勃発し、目の前の大学は、一転して、潰さなくてはいけない旧体制に変わった。そして、思い知らされたのは、石を投げても大学は変わらない、という単純な事実であった。だが、あれだけの犠牲を払った以上、絶対に何かが変わらなければならないし、変わったはずなのである。  私は、生涯、大学の人間と同じ空気を吸うことはしまい、と心に決めた。だれが稼いだ金かわからない税金を、自分の好奇心と業績のために何の痛痒もなく消尽する、無神経で傲慢なこの種の人間を呪い潰してやろうと思…

→ 続きを読む

商品としての研究——不便なところに商機あり

京都大学人文科学研究所で開かれた、「生物学史夏の学校」の今年のテーマが「オープンサイエンス」であったので、9月23日(土)だけ参加した。ただし現在の日本では、オープンサイエンスという概念は、まだまだ生煮えの状態にあると思う。それにつけても、いまから12年前に書いた「商品としての研究」という記事を配布して、もっと積極的に議論に加わるべきであった。反省することしきりである。 そこで、この記事を少し修正して再録しておく。

→ 続きを読む

『「いのちの思想」を掘り起こす』;低迷する日本の生命倫理研究

 岩波書店の月報『図書』2012年2月号に、宗教学の第一人者である島薗進・東大教授が「いのちの痛みからの問い――日本の「生命倫理」の魁群像」というエッセイを書いている。島薗教授はそのなかでこう述懐している。 「思えば私自身、1967年に大学教養学部の医学部進学過程に入学したが、3年後、医学部進学をやめ、文学部の宗教学科へと大きな進路変更をした。その折に私が現代医療、現代医学に感じた疑問は何だったのか。30年後に生命倫理に取り組むようになってたびたび、1970年前後に考えようとしたことが再びよみがえるように感じられた。そして、2011年3月11日の福島原発災害は、私を今一度、もっと激しく1970年前後へと引き戻した。・・・・・・生命倫理の問題も原発による安全や環境汚染の問題も、科学技術が引き起こす「いのちの侵害」に関っている。そしてそれらの「いのちの侵害」に対峙する日本の「いのちの思想」は、1970年前後にひときわ鋭い高揚の時期をもったようだ。

→ 続きを読む