ニセ仙人山籠もり

皇室と男女産み分け

2011年12月25日 | 生命倫理 | Download PDF

 政府は、女性宮家の創設に関して、年明けから有識者に対してヒアリングを行う、と発表した。
 2005年11月、小泉純一郎首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は、女性天皇(女性皇族による皇位継承)と、女系天皇(父親が皇室の血筋に属さない天皇)も認めるべき、とする報告書をまとめた。この報告書は、40年近く皇室には内親王(皇室用語で女子)しか誕生されなかったからなのだが、06年に秋篠宮家に悠仁親王が誕生され、皇室典範の改正問題は先送りとなった。

 だが、安定した皇位継承という問題が消え去ったわけではない。
 皇位は、憲法第2条によって世襲とされ、皇室典範第1条で、男系男子が継承すると定められている。有識者会議は、皇位継承に関してあらゆる可能性を検討した、と考えているようだが、一つ重要な論点を欠落させている。現行の皇室制度を維持していく上で、科学技術、とくに生殖技術をどこまで用いることにするのか、という問題である。少なくとも1986年に、日本医師会の生命倫理懇談会が、男女産み分け技術について、伴性劣性遺伝性疾患の予防に限定して容認し、実施は日本産科婦人科学会の倫理委員会の決定に委ねるという見解を示して以来、男女産み分け技術の存在は、公知の事実のはずである。
 あるいは有識者会議は、男女産み分け技術に言及することなどは、問題の性格からしてもっての外、とする基本認識があったのかも知れない。それはそれで一つの見識であり、それならば、そういう価値観にたっていることを明示すべきであった。
 実は、皇室がそのような価値規範にたっていることは、間接的ではあるが示されている。私は、愛子内親王が誕生されたとき、深い感動を受けたことを鮮明に覚えている。この直前、あたかも親王が生まれるかのようなうわさが流れ、そんな中での内親王の誕生であった。これは、皇太子、皇太子妃、その周囲の者が、「かりに不妊治療を受けるとしても、純粋な医学的治療以外、いっさいの人為的介入を行わない」という強い意思を持たれたことの、反映であると推察できるからである。そしてこの原則は、日本を含めた世界中の医療職能集団(medical profession)がとる基本的立場でもある。医療者は、あくまで疾病の治療と予防にのみ従事する者であり、いくら切実に男女産み分け技術の実施を懇願されたとしても、個人の嗜好に関るものとして応じないのが、本来の立場である。

 有識者会議報告書は、基本的な視点として、(1)国民の理解と支持を得られるものであること、(2)伝統を踏まえたものであること、(3)制度として安定したものであること、をあげ、その上で、歴代の天皇のほぼ半数が非嫡出子(側室の子)であったこと、そして現在、側室は社会的に認めらないことを、女性・女系天皇を認める根拠の一つとしている。
 これは当然の結論であろう。言い換えれば、有識者会議は、側室を廃止して伝統を改め、近代的な価値規範に立った皇室のあり方を提示したのである。だが同時に、報告書も言及しているように、側室が容認されてきた第二次大戦以前は、多産多死が当たり前であった。少産少死という現在の状態は、社会的価値の変化と同時に、科学技術の成果を享受している結果でもあるのだ。皇室典範が制定された半世紀前、今日のように生殖技術が発達することは想定されていなかった。
 科学技術の進歩と皇室という視点から関係法令を点検してみるとどうなるか。憲法が世襲と定めているか否かに関わりなく、女性皇族が一般的医療の一部として不妊治療を受けられるのは当然のことであろう。重要な問題は、女性皇族が現在の不妊治療を受けられる場合、さまざまなタイプの生殖技術の選択可能性に直面されるはずなのだが、許される選択の幅やその決定権の所在についての議論がまったくないことである。

 現在、たとえば体外受精を受ける場合、着床前診断で核型チェックを行えば、男女産み分けはきわめて高い精度で行うことができる。生殖技術を英語では「補助生殖医療 assisted reproductive medicine」と表現するが、ここには、全能なる神の領域である子作りに対して、人間の側が少しだけ医療技術を用いて介添えする、というキリスト教的な意味が込められている。欧州社会にとっては今日もなお、法王庁が価値規範の重要な供給源であり、議会において、キリスト教教義の現世的表現をそのまま、生殖技術を規制する法律の条文に採用している国は珍しくない。国民の大半がカトリック教徒であるオーストリアの生殖技術法(1992年)には、生殖技術の実施を拒否する医療者も、またこれを行う医療者も、ともに差別されてはならない、という条項まである。欧州社会では、生殖技術はそれほどまでに信仰と直接関係する医療なのである。
 欧州主要国では、医学的な理由をともなわない男女産み分けは、医学界のガイドラインとして行わないことにしている場合が多数だが、一方で、多様な価値観を前提とするアメリカ合衆国では、個々の家族の男女比のアンバランスを理由に男女産み分けが行われるのは、めずらしくない。
 世界を見渡してみると、実は日本だけが、憲法によって象徴天皇という制度が国の基本に置かれているために、皇室の存続とそのための科学技術の許容度という問題に回答を出す必要がある。そしてそれゆえに、社会が維持しようとする価値規範を明確にする、またとない契機が与えられていることになる。
 戦後、昭和天皇は人間宣言をされた。そして新しい統治機構の中で憲法が定める国事行為を行われるだけでなく、たとえば、自ら田植えをされることで、天皇は瑞穂の国に生きる者の象徴であるとするメッセージとして、われわれはこれを受け取ってきた。
結論を急ぐと、現在の皇室の存続に関する議論において、緊急避難的に男女産み分け技術を使用する可能性も、一つの選択肢として同等に議論すべきである。現実的な方法を考えてみると、皇族が結婚され、第一子が内親王であった場合、皇室会議は、皇族の全体の構成を考え、第二子以降の懐胎に際して、男女産み分けを含む最新・最適の生殖技術を用いる可能性について討議する、秘密会議をもつことができる、という規則を設ける道である。
 もし日本の多くの人が、皇室の継続は、現に皇室が厳格に遵守されていると推察されるように、「自然」にゆだねるのを貫くべきで、科学技術の利用は断じて禁欲的であるべき、と考えるのであれば、現在の政府の方針にそって皇室典範の改正に進むことになるのだろう。だがもし、現在と同じ皇室制度を維持しながら、なおかつ男系男子の皇位継承が望ましいとする意見が大勢であるのなら、禁じ手とされる、一定の生殖技術使用を緊急避難的に検討する秘密会議を開くことを、社会として容認する方向になるのではないか。
 考えてみると、「生命科学の世紀」である21世紀には、皇室は潜在的に、新しい象徴性を担わされる必然にあったのかもしれない。そもそも、急速に進む生命科学を前に、われわれは、身体的な自然を、どういうものと解釈し、それをどう位置づけるのかを明らかにし、他の社会的価値と織り合わせながら、科学技術のあり方を紡ぎだしていかなくてはならない。この巨大テーマは、これまで「生命倫理」と呼ばれ、欧米で開発された論理にそって語るのが一般的であった。だが、われわれは、皇室の存続問題を介して、日本社会としての科学技術の許容のあり方について、独自の論を組みたてる端緒をつかむのかもしれない。21世紀の日本社会が直面する「バイオポリティクス」の、紛れもない重要課題である。キリスト教圏出自の欧米社会との比較の上でも、憲法の規定に内在している伝統や制度に関する討議の中から、根本的な価値を析出させたり再確認する作業は、社会の構成論理を探求する手法としては正統のものであり、このことにわれわれは、もっと自信をもってよいのである。