ニセ仙人山籠もり

『「いのちの思想」を掘り起こす』;低迷する日本の生命倫理研究

2012年10月20日 | アカデミズム批判, 生命倫理 | Download PDF

 岩波書店の月報『図書』2012年2月号に、宗教学の第一人者である島薗進・東大教授が「いのちの痛みからの問い――日本の「生命倫理」の魁群像」というエッセイを書いている。島薗教授はそのなかでこう述懐している。

「思えば私自身、1967年に大学教養学部の医学部進学過程に入学したが、3年後、医学部進学をやめ、文学部の宗教学科へと大きな進路変更をした。その折に私が現代医療、現代医学に感じた疑問は何だったのか。30年後に生命倫理に取り組むようになってたびたび、1970年前後に考えようとしたことが再びよみがえるように感じられた。そして、2011年3月11日の福島原発災害は、私を今一度、もっと激しく1970年前後へと引き戻した。・・・・・・生命倫理の問題も原発による安全や環境汚染の問題も、科学技術が引き起こす「いのちの侵害」に関っている。そしてそれらの「いのちの侵害」に対峙する日本の「いのちの思想」は、1970年前後にひときわ鋭い高揚の時期をもったようだ。

 私のこんな勝手な回顧にみごとに応じてくれる読み応えのある書物が、ちょうどよいタイミングで刊行された。安藤泰至編『「いのちの思想」を掘り起こす――生命倫理の再生に向けて』(岩波書店)である」。
 同じ出版社の広報誌の文章なのだから、褒めて当然ではある。私は、この本に直感的に違和感を抱き黙殺してきたのだが、島薗教授が自らの過去と重ねながらこうまで評価するのであれば、一読の価値はあるのだろうと思いとり寄せてみた。
で、その読後感は、「日本のアカデミズムはここまで堕落したのか!」の一言なのだ。ある高名な哲学者が、日本生命倫理学会の年会を指して「日曜のピアノの発表会」と吐き捨てるように私に言ったことがあるが、それを再確認した次第である。

 その「あとがき」によると、本が生まれるきっかけとなったのは、09年11月の日本生命倫理学会第21回年次大会におけるシンポジウム「日本におけるバイオエシカルな思想――バイオエシックス前史から未来へ」であるとされる。このシンポジウムは、この年の年会(大林雅之・大会長)の目玉として、学会の正規の手続きによって企画された学術的成果(?)なのだ。日本のアカデミズムの自己検証機能は地に落ちた、と見るよりない。
 なかでも救い難いのは、主題の位置にある安藤泰至著「第一章 上原專禄の医療・宗教批判とその射程」である。内容を簡単にまとめると、上原專禄(1899-1975)は、一時期、一橋大学学長を努めるなど、戦前戦後を通して第一級の知識人として活躍したが、1964年以降はいっさいの公職を辞し、独自の日蓮研究に没頭した。その上原の妻が、肝臓癌に罹り、当時は治療手段がないまま、69年に死を迎えるのだが、上原は妻の闘病記を残しており、そのなかに日本における生命倫理の先駆が認められる、と安藤は言うのである。実際、妻への深い愛情から、上原の目にはまったく不適切としか映らない医師の対応に怒りを抑えながら、三人の医師を俎上にのせている。開業医で上原夫妻の事実上の「かかりつけ医」であった女医の武者増穂医師、最後に入院した河北病院の小笠原道夫医師、そして東大医学部第一内科の吉利和教授(1913-1992)である。河北病院には吉利教授の紹介で入院している。

 ただしこれらはすべて、上原の研究書『死者・生者――日蓮認識への発想と視点』(1974年、未来社)の最終章、「死者と共に生きる――あとがきに代えて――」に濃縮されたかたちで記録されている。上原は、妻の病状の進行に対して医療が無力である上、治療手段がないと診ると医者は本当に何もしないこと、それ以前に患者本人の気持ちを汲もうとすらしない態度を許すことができず、「医療過誤」の可能性を追求しようとする。だが上原の文章を読むかぎり、明らかに問題となるのは、誤診を続けた武者医師だけのようにみえる。その武者医師は最末期の癌患者に対し絶対安静を指示しなかったのだが、当時の医療のレベルでは明確に過誤と咎められるものとは思えない。

 確かに上原は、死にゆく患者に対して冷酷とすら見える当時の終末期医療(当時はこういう言葉もなかった)に反旗を翻すことを決め、自らの研究書の冒頭に「われらと共存し共生し共闘する、妙利子の霊前にこの書を捧げる」との献辞を掲げ、「あとがき」という間接的な場を借りて、異様に長文となることも厭わず、当時の医療のあり方を告発した。「あとがき」という私文書と言ってよい形で妻への思いの丈を語るという屈曲した手法が、当時の医療の社会的構造に対して異議申し立てをしようとすると、上原のような地位ある者ですら、ぎりぎりの選択であったのだ。私文書に近いものであるから、妻への思いが一気に溢れ、そのぶん客観性は著しく小さくなる。

 上原は、いかにもアカデミズムの人間らしく、妻の死後、吉利教授の権威に頼って、妻の治療過程における過誤を検証してもらうことを思いつくのだが、妻の霊前で読経をしているとき、「お父さん、もう止めときやす。吉利先生はどんなことできるお人やない。」という、死んだはずの妻の声を聞く。これはいかに吉利教授に善意があっても、当時の医療体制(武見時代の医療については後述)の下では、実現不可能であることの自問自答の末の言葉であったと考えてよい。さらに、死の二日前には吉利教授がわざわざ河北病院の病室まで来診し、丁寧に診察したあと、ベッドの脇で「困りました。お役に立てなくて申し訳ありません。」と言った。これに対して、上原は、死亡宣告同然の言葉を本人の目の前で言われたことになり、鉛を飲まされた思いになった、と記している。上原は、妻は吉利教授の冷酷さを賢明にも黙殺したと、妻の心の動きを忖度している。しかし妻の方は、病室を出て行く教授を合掌して見送っている。吉利教授の誠実さと率直なもの言いに、本人はむしろ自ら置かれた状況を納得したのではないか。

 自書のあとがきに、自らの思いを自由に書き込むことは、第三者が咎めだてすべきことではない。だが、半世紀後に、「倫理学者」がこの表現箇所をもって、その対象となった者の行為が生命倫理にもとるものと裁断することは、幾重も誤りを犯しており、当然、それをまとめたものは下下の駄文でしかない。安藤の論理は、その大半を、上原があえて主観や感情を露に書き下ろした自書の「あとがき」を根拠にしており、日本の「生命倫理」の先駆を掘り起こすのだとしても、その第一歩である資料批判において、学生のレポート以下、完全な落第点である。

 そもそも安藤にしろ、同書「第5章 日本の生命倫理研究の開拓者たち」を書いた香川知晶にしろ、吉利教授に関係する文章は間接的な伝聞に近いものばかりである。香川は、木村利人・元早稲田大学教授が2005年に非公開組織である第33回医学系大学倫理委員会連絡会議で行った講演を引用して吉利教授が、医の権力を体現した人物であったことを示そうとしている。

 「たとえば、私はかつて東京大学の内科の吉利先生と対談したことがありますが、吉利先生は悪気がなくて言ったのだと思いますけれども、「患者というのは病院に一歩敷居をまたいで入ってきたら、医者の言うとおりにやってもらわなくちゃ困る」と言われました。ちょっとひどい表現ですが、「煮ても焼いても自由だ」と言われたのです。いまから30年か40年ぐらい前ですけれども、「先生、あんまりではないですか、私はバックグランドは法律ですけれども、患者の人権はどうなるのですか。人間としての尊厳がどれだけ病院の中で尊ばれるかどうか、それはどうなのですか」と反論しました。「それは君、法律家の立場だよ。医療とは何の関係もない。医者は患者の病気を治すことが最も重要な使命だから。」(安藤編著、p.217)。

 香川はこれらを根拠に、吉利教授が1988年に発足した生命倫理研究会の初代会長に選ばれたことをとりあげて、「そこに、ならかの改心があったのか、なかったのか、何とも皮肉に思えてくる」(同書、p.218)と述べている。私はこれまでの人生の中で、これほどトンチンカンな表現を、学術書のなかで見たことはない。噴飯物である。この本の欠点を一言で言えば、著者らが一貫して、今日的な意味内容を前提とした「生命倫理」的規範――—その典型がインフォームド・コンセントであり、それ自体、アメリカ出自の概念だが――—を数十年前の日本の医療に、何の躊躇もなく平然とあてはめてこれを裁断していること、しかもそのことに何かしら学術的意味があると、天から信じているらしいことである。

 最大の欠陥は、今日言うところの「生命倫理」的課題が本質的に、最も広い意味で「政治的なもの」であったことを視野から完全に欠落させていることである。それは、単純な医者=患者関係だけではなく、医療の体制そのものの変更を迫る一種の思想運動であったのであり,それは時間差はあったが、先進国は押しなべて1970年代末以降、この政治的変動の波をかぶることになった、価値観の歴史的な構造変動だったのである。(つづく)