ニセ仙人山籠もり

木村資生氏の思い出(『中央公論』1995年1月号)

2020年8月21日 | 科学哲学, 科学評論, 進化論 | Download PDF

 本棚を整理していたら、1971年4月に、木村資生(1924~1994)氏が京大理学部で行った、集団遺伝学の集中講義用のガリ版刷りのテキストが出たきた。1968年に中立進化説を発表し、世界的な大論争の渦中にあったときである。
 かなり、書き込みがあり、めずらしく全部聴講したらしい。

 木村氏が亡くなったのは、1994年11月13日である。その直後に『中央公論』から2頁ぶんの追悼記事を依頼された。急遽、資料を集めて1週間ほどで書き上げた原稿が、ギリギリで間に合い、12月10日発売の同誌1995年1月号に掲載された。
 「木村資生氏は遺伝学に何を残したか」というタイトルの文章(同号p.106~107)を再録しておく。
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 進化の中立説で有名な、国立遺伝学研究所名誉教授、木村資生氏が逝去された。享年70歳。しばしば、第一級の自然科学者をさして、ノーベル賞級という賛辞が与えられることがあるが、木村氏の場合、これは単なる言葉のあやではなかった。ノーベル医学・生理学賞の受賞に、もっとも近かった日本人の一人であったことは、まぎれもない事実である。
 伝統的にノーベル賞は、第一に圧倒的な独創性を、第二に、重要な仮説を提出し、それが後に実証され広く認められるようになったものを、高く評価してきた。しかし最近では、自然科学が大型化し、プロジェクト化してきたため、このような古典的ともいえるノーベル賞のイメージにピタリあてはまるような研究業績が出にくくなっていたからである。
 木村資生氏は、1924年、愛知県岡崎市に生まれた。京都大学理学部時代に、タルホコムギの研究で有名な木原均教授の薫陶をうけ、遺伝学に興味をもった。当時の遺伝学は染色体分析が中心であったが、木村氏はまったくの傍流であった集団遺伝学を選んだ。数学を駆使する、その美しさに魅かれたのであろう。しかし日本では、この領域の研究者は極端に少なく、理解者も皆無に近かった。国立遺伝学研究所に職を得たのち、アメリカに留学して、集団遺伝学の大物、クロー教授の下で研究できたことが、大いなる自身につながったに違いない。
 遺伝とは、親の形質が子に伝わる現象である。ただし集団遺伝学の立場は、遺伝学としてはかなり異質で、親子関係ばかりか、個々の生物個体までをも消し去り、生物集団としての遺伝子の頻度とその世代間での変動を問題にするものである。学問としての骨格は、1930年代の初頭、フィッシャー、ホールデン、ライトの三学者によってほぼ完成された。だが、観察・実験・データ収集に汗水を流すのが王道と信じて疑わない生物学本流からは、小難しい数学をもてあそぶアームチェア学者と疎んじられることが多く、日本の学界ではとくにこの傾向が強かった。
 集団遺伝学にとっても、また木村氏自身にとっても、転機は1960年代に訪れた。分子生物学の爆発的発展である。DNAという遺伝の分子的実態が明らかになり、またこのDNAによって決められているたんぱく質の研究も一段と進んだため、さまざまな生物種の間で、これらの分子を比較することが可能になった。たとえば、赤血球のなかにヘモグロビンというたんぱく質がある。この分子を構成しているアミノ酸の組み合わせをいろいろな生物で比べてみると、これまで解剖学的な視点から描かれてきた進化の系統樹と、ことごとく一致した。
 問題はこの先である。木村氏が、このアミノ酸残基の変換の速度を計算してみた結果、驚くべきことを発見した。第一に、同じたんぱく質で見るかぎり、ほとんどの生物においてアミノ酸残基の変換速度は、ほぼ一定であること。第二に、この変換は特定の型があるわけではなく、ランダムであること。第三に、アミノ酸残基変換速度は予想外に速いこと、である。つまり、生物進化の定義が、「突然変異が起こり、これが何らかの理由で生物種のなかに広がって固定されること」だとすれば、少なくとも分子レベルでは、進化のほとんどは中立的なもの、という結論に達する。
 1968年2月17日号の『Nature』に掲載された論文「分子レベルの変化率」のなかで、木村氏はこのことを主張したのである。これによって大論争が巻き起こった。その要点は、一にも二にも、生物が示すあらゆる形質は何らかの意味で、ダーウィン的な自然選択の産物であることを信じて疑わない、古典的な正統派の進化論者からのものであった。科学界の本流を占めるキリスト教圏の研究者は、突然変異→自然淘汰というダーウィン説が、生物進化を説明できるほぼ唯一の学説であり、これが少しでも崩れれば、それだけ非科学的な生物創造説につけ入るスキを与える、と信じていたため、中立説に向けていっせいに、批判の矢を放った。
 これに対して木村氏は、中立説は生体を構成する分子の進化に着目するのであり、この次元ではもっぱら分子の生体内での機能が重要であること、他方、ダーウィン進化論は、生物個体の突然変異に対する環境の側からの淘汰が決定的な要因と考えるのだが、両説はまったく矛盾するものではないことを、断固主張し続けた。氏は、1983年に、その考え方を『分子進化の中立説』(ケンブリッジ大学出版)としてまとめたが、これが決定打となった。中立説に対する強力な批判者であったジョン・メイナード・スミスは、『Nature』の書評で、この本を、フィッシャーの『自然淘汰の遺伝理論』、マイヤーの『進化の原因』と並ぶ、進化論研究における第一級の書と評価した。
 私は、中立説の提唱直後の1971年4月に、「集団遺伝学概論」という名の集中講義で、トレードマークの蝶ネクタイをぴしっと決めた氏の講義を聞いたことがある。このとき氏は、世界的な論争の渦中にあり、孤独な闘士という雰囲気を漂わせておられた。氏は、自らの研究領域を分子集団遺伝学と呼んだが、結局、木村中立説は、現代生物学の一大革命である分子生物学の展開と表裏一体のものであったのであり、その膨大な成果の山に対して、思わぬ角度から統一的な解釈を与えるものであったのである。