東大教授の恫喝——優生学史研究を始めたころ

 今は、優生学史の研究をすると言っても誰も怪しまない。ましてや、それを危険視することなど絶対にない。だが1970年代末は、事態はまったく違っていた。  数年前、ある大学の学位請求論文に、優生学史研究が提出され、審査員を依頼された。内容的にはじゅうぶんで何の問題もなかった。だが、この分野からしばらく遠ざかっていた私には、清々と優生学史が論じられ、議論が進んでいく雰囲気に、違和感を隠せなかった。私がドイツ優生学史を始めた当時、このような研究はナチス復活につながる危険な兆候と糾弾され、それに必死に抵抗した。そのことが、鮮やかによみがえってきたのである。 優生学史を研究課題に  話は40年前にさかのぼる。  1976年に私は、三菱化成生命科学研究所・社会生命科学研究室に採用され、科学史の担当となった。いま振り返ると、このポストは、民間の研究所が後にも先にも一回だけ設けた生物学史研究の専任職であり、私は信じられないほどの幸運に恵まれたことになる。  社会生命科学研究室は、生命科学と社会との間に生じる問題を研究する組織として、この研究所を立ち上げた江上不二夫(1910~1982)初代所長が、当初からその必要性を考えていたものである。当時、この研究室は、アメリカの学界で大きな波紋を広げていた「遺伝子組み換え論争」を追いかけていた。  私は、この遺伝子組み換え論争のなかで言及され始めていた優生学の歴史を研究することにし、まったく手がつけられていなかったドイツ優生学の起源を調べることにした。そもそもそのような研究が国内にいたままできるものか、不明であった。だが、大学図書館や国立公衆衛生院の図書館に優生学史の資料が保管されていることがわかり、民間の研究者であるため、さまざまな関係者の協力を得て、研究は少しずつ進んだ。  なかでも東大総合図書館は資料の宝庫であった。その理由は、1923年の関東大震災で東大図書館が全焼してしまい、国内外に向けて、東大に図書を寄付するよう呼びかけがされた。その結果、世界中から19世紀末から20世紀初頭にかけての出版物が大量に寄贈されたのだが、その中には、日本のアカデミズムがまったく関心を払っては来なかった分野の出版物もたくさん入っていた。優生学の成立は、この時期に重なっていたのである。 ドイツ民族衛生学の始祖:A・プレッツ  ドイツ優生学の源流は、A・プレッ … 続きを読む 東大教授の恫喝——優生学史研究を始めたころ