ニセ仙人山籠もり

孤高の人——今西錦司

2017年7月30日 | 科学評論, 自跋, 進化論 | Download PDF

 私が、俗にいう‘今西進化論’の信奉者だと思っている人が意外に多いことに、最近、気がついた。そもそも、今西錦司氏本人ですら、ダーウィンの自然選択説を認めないからと言って、ご自分が独自の進化論を主張したとは、あまり思っておられなかったのではないか。

 それは、第二次世界大戦までは、自然選択説だけで進化を説明するのは不十分であることは、生物学界の常識であったからだ。それに進化論の本流が、総合説という「突然変異→自然選択」の説明一本立ちになり、啓蒙色を強めたのは、1947年1月のプリンストン会議以降のことである。この点は、現代進化論の議論の場にほとんど居合わせた E.マイアー(Ernst Mayer:1904~2005)が、意識的に証言を残している(The Evolutionary Synthesis, 1980, p.42)。
 ただし、国内の出版社側が、今西氏の主張を、’ダーウィンを乗り越えた日本独自の進化論’と持ち上げて、本の形にした事実があり、氏がとくにこれに反対はされなかったことをもって、氏を非難する立場に、私は与しない。

 『増補版 今西錦司全集 第13巻』(講談社)「月報第3号 1993.8.15」p.3~6 に、私と今西先生との関係を載せておいたのだが、案の定、誰も読んではくれなかった。そこで、この文章を少しふくらませた形て再録しておく。

 

孤高の人
 私が京大山岳部に入ったのは1966年だから、もちろん今西錦司という人は、とっくに雲の上の存在であった。学生時代に一度、今西先生をお見かけしたことがある。居酒屋「赤垣」でわいわい飲んでいたら、別室で飲んでおられた今西先生が、若い者のところへ、と席を移されたのである。ひとりふたり元気のよい同回生(その一人が井上民二氏[1947~1997、マレーシアのランビルで航空機事故]であった)が、なにやら議論をしかけたのを、私はただただ緊張して聞き入っていた。
 まもなく私は大学紛争に出会い、残る人生すべてを大学批判にささげようと決心してしまった。20歳台の若者は、時にとんでもないことを決めてしまうものである。
 そこで考えついたのは、普通のサラリーマン生活をしながら、何らかの学術的成果をあげ、そのうえで、一般人でもこれだけのことができるのに、しかる京大教官のざまは何事かと批判し続けることであった。郷里に帰って目論見通りの生活に入ったのだが、このとき、心の支えの一つになったのは実は、壮年までアカデミズムにポストが得られなかった今西先生の経歴と、その学風であった。
 疲れて家に戻ってから科学史の資料を読むとき、道のないところに道をつけるという一点において、自分は今西精神の後を継ぐ者、と密かに自分に言い聞かせていた。あり体に言って、それほど京大理学部に対する幻滅と復讐心は強烈であったし、証券会社で働いていた4年間は、精神的に本当にきつい生活だった。だがその後、まったくの偶然から現在の研究所(三菱化成生命科学研究所)に転がり込み、皮肉にもいま研究職にある。
 こうして東京に職を得たため、晩年、今西先生が関東の山を登られるのにお供するようになった。人生とは不思議なものである。奥日光の袈裟丸山(1878m)や皇海山(2144m)などにご一緒した。


皇海山(2144m),1981年12月7日。
後列右から二人目が今西氏、その左が私。
左端に一部写っているのが山頂の標識

 このころある場所で、「今西さんと柴谷さんに対談してもらいたいなあ」と、夢のようなことを口走ったことがある。当時、柴谷篤弘先生はオーストラリア在住で、『今西進化論批判試論』(朝日出版社 1981)を出されたばかりだった。ところがこの話が出版社に伝えられ、「今西先生をうんと言わせられるのなら、柴谷先生をオーストラリアからお呼びしましょう」と言われてしまった。

 私のごとき若造に、そんな大それたことができるわけがない。といって、引き下がるわけにもいかず、きついお叱りを受けるのを覚悟の上で、お手紙を出してみた。するとまもなく、「柴谷氏との対談了承。できれば夏、京都で」という、えらく簡潔なお葉書をいただいた。こうして対談本『進化論も進化する』(リブロポート、1984)が実現した。本のタイトルも、最後に今西先生が考え出された。

 司会役は自然、私に回ってきたが、いまは無くなった賀茂川二条西詰の「ホテル フジタ」の別棟日本間で、二日つぶして対談を行った。このうち初日は、今西先生ののりが悪かった。当日、私がタクシーで下鴨のお宅にお迎えにいくと、「打ち合わせはどうした!」と一喝された。あまりの大先生なので事前にどう連絡してよいものか、見当もつかず、山の中でルートを探すようなものだから、ぶっつけ本番でいいだろうと勝手に決め込んでいたのだが、やはり今西先生のお考えは違っていた。

 しまった!と思ったが、後の祭りである。しかもこの時、初めて知ったのだが、お二人は初対面であった。初日が不調だった理由の大半は私に責任がある。

 だから、この本の前半には他の場所、たとえば対談直前に犬山の京大霊長類研究所で開かれた「第2回ホモニゼーション研究会」で今西先生が話された内容で、私の頭に残っていたことなどが、いくつか滑り込ませてある。それに、対談のために東京から優秀な速記者に来てもらったが、速記録は標準語でしかあがってこない。

 それを私が勝手に、今西先生の部分を京都弁に直し、発言の内容を度はずれに膨らませた原稿を作り、それでゲラを組んでしまった。また一喝され、大幅な手直しをされるものだとばかり思っていた。が、今西先生は大部なゲラにたった一箇所、誤字訂正のアカを入れられただけだった。

 この時、いまなら今西論が書る、と根拠不明の自信がわいた。その気持ちを保ったまま、まず桑原武夫先生のお宅にご相談にうかがった。桑原先生は、できたばかりの『進化論も進化する』を手にこう言われた。

 「この本、プロデユースしたのは君か?」

 「は、はい」

 「普通、方言にすると品が無くなるものだが、これはうまくできとる」

 思ってもいなかった言葉に出あい、少し気を良くして本題に入ると、桑原先生は『人物素描』(フランスの’ポルトレ’という人物評論のジャンルがお好きだった)以来の持論を展開され、私の企てに間接的に反対された。

 「人物を語るには、その人間の女性観も入れんかったらあかん。彼が若いとき、どんな遊び方をしたか、知っとんのはわしだけや」

 「おっしゃる通りだと思います。是非、その件をどこかにお書きいただければ……」

 「わしゃ、そんなこと書いとる暇はない!」

 いまは、今西論をやらなくてよかったと思っている。

 今西錦司という人に素直に重なる言葉は「孤高」だと思う。対談本のなかに、こういう今西先生の述懐がある。

 「柴谷さんが、おれを紹介してくれた英文を読んだとき、今西はわれ感ぜずに、ということを表現するのに “aloof” という言葉が使ってあったんや。あの “aloof” というのはぼくは好きでなぁ。ワシが空をフワーッと一羽で飛んどるのがそれやろう……」

 私は以前、日本独自といわれる学派がどのような事情で成立したのかを調べる共同研究に加わったことがある。もちろん、その分析対象には日本の霊長類研究も入っていた。それでわかったことは、学問にも、創成期、青年期、完成期、衰退期というライフサイクルがあり、創成期に活躍するパイオニアは、その領域がディシプリンとして確立してくるにつれて、それを窮屈と感じ、学問として形を整える作業は第二世代の優等生にまかせて(今西氏の場合、自然人類学は伊谷純一郎、文化人類学は梅棹忠夫、植物生態学は吉良龍夫など)、新しい領域を別に見つけて移っていってしまう傾向があることであった。

 もちろん今西先生はその典型であり、自らが立ち上げるのに努力した新領域が、科学史家 T. クーンが命名した「通常科学 normal science」になっていくことにともなう、知的緊張感の欠如を敏感に嫌っておられたのだと思う。それはたぶん、精神的高揚の消失という理由からだけではなく、ご自分の内にある真理への確信と、学問という形を整えて表現されていくものとが、次第にズレていくことが見えてきてしまうからなのだと思う。

 今西先生は、孤高の心地よさと潔さを楽しむ人であり、そういう人間が好きな方だった。晩年、今西先生が主宰された勉強会「洛北の会」の入会資格が、どんな専門であれ一個の武士と思える人間、と言われておられたことを思い出すのである。